なんやかんや言うても死ぬまで元気-胸膜中皮腫患者の前向き一辺倒-闘病記~死ぬまで元気です/67 右田孝雄

皆さん、こんにちは。

年明けから3度の入院をしました。

飲み薬の誤嚥で窒息して、2度目の入院となったことまで、前回、お話ししました。

それから3度目の入院になった経緯なんですが、誤嚥入院から帰ってきて、家で過ごしていました。

ある日、寝てたんですが、夜中に起きようと思ったら、ベッドからつるんと滑り落ちたんです。親父がそれを見て、慌てて助けに来ました。「病院行かんでいいか」って言われたんですが、ちょうど通院日でしたので、それまで家でゆっくりして、通院時間に病院へ行きました。

採血とCRPの数値はそんなに上がっていなかったのですが、熱が37度3分あったので、先生に「入院するか?」と言われましたが、これくらい心配ないやろうって、一旦家に帰ったんですよ。そしたら熱は下がっているのにだんだん体の不調を覚えて、病院へ電話して、夕方に妹と再度、病院へ。救急の入り口から入って、診察を受けて、やっぱり肺炎を起こしているから入院することになったんです。

それから8日ほど病院で過ごしましたが、最後は家で過ごしたいと言って、自宅療養の段取りや訪問看護の準備をして、自宅に帰ってくることができました。
で、今に至っているのですが、病院で着けてないような、見たこともない大きさのマスクになっています。

最初は、鼻チューブを酸素濃縮器につないでいたのですが、最後の入院中に、チューブが取れて二酸化炭素が体に充満して記憶が飛んだようになりました。病院は、私が意思疎通出来ないから、と家族を呼んで、24時間家族が付き添うことになりました。

その時に処置を受けていた部屋が真っ白な部屋で、体には機械がいっぱい着けられていて、ぱっと目が覚めたときに、ここどこやろ、ってなって。「バイオハザード」って映画があったじゃないですか、真っ白な部屋に主人公が寝かされている、そんな感じでした。

「うわっ、このままやったら殺される」って思ったときに、妹が入ってきたのですが、それを妹と思えず、「私やで」と言われても分からなかったんです。とっさに逃げようと、「トイレ、トイレ行かな」と言って、ベッドの柵を跳び越えようとしました。当然つながれていたチューブがブチブチと取れて、あ、やったらいかんことしたかなってようやく正気に戻って、振り返ったらやっと妹だと分かりました。その間、妹は私がベッドから落ちないように後ろから必死で、両手でパジャマを掴んで引っ張ってくれていました。

妹にもう家に帰りたいと訴えて、母がお世話になった地域の医療関係者さんたちが動いてくれたおかげで、帰れることになりました。2日後に帰れるとなったときに、病院はこのマスクを出してきました。

退院の前日からこれをして、丸一日したらなかなか良くて、息もそうだし、全ての数値が落ち着いてきて、記憶が薄れるようなこともなく、改善しました。

機械(汎用人工呼吸器)に出ている数値がゼロなら100%酸素が入っているということで、40を超えたらアラームが鳴ります。マスクの周りから息が漏れているということです。加湿器もついていて、病院では6時間で水がなくなっていたのが、家ではそんなこともなく、自分の息とマスク内の加湿具合をうまく調節してくれているようです。

退院してから、往診医さんも毎日来てくれるのですが、退院翌日にすごく悪くなる人があるけど、私の場合は呼吸器が合って、うまく使えていてよかった、と言っていました。

おかげで、自宅でこうして過ごせています。

やっぱり私は、なんやかんや言うても死ぬまで元気です。

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67回にわたって続いてきましたコラムですが、今回で終わりです。

右田孝雄さんは、3月2日に家族に見守られながら、天国へ旅立ちました。このコラムは、亡くなる3日前に自宅で右田さんのお話を録音させてもらって、原稿に起こし、事務局の責任で編集しました。

右田さんのご冥福をお祈りします。

関西労災職業病2024年3月552号

悪性胸膜中皮腫と言われてどこまで生きれるかやってみよう!とおかげさまで5年経過達成しました~平成28年7月突然の「悪性胸膜中皮腫」確定診断。その後「中皮腫サポートキャラバン隊」中心に全国行脚を展開しながら治療を続けてきました。これからは目指すべきものの達成に向けて鋭意活動中です。(右田孝雄氏のブログ)

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中皮腫治療推進基金