2024訪韓記録vol.1 酒と闘争と

2024年2月26日から29日にかけて、3泊4日で、日韓民主労働者連帯の訪韓交流が行われた。訪韓メンバーは日韓労働者連帯の中村猛氏、萩原亥王氏、私の3名。それに加えて、韓国で活動している鈴木明氏が現地で合流し、主に4人で韓国を動き回った。それについてレポートする。

1.訪韓について

まず記録の前に、この日韓民主労働者連帯の訪韓交流について簡単に説明したい。

日韓民主労働者連帯という組織は、1989年のアジアスワニー闘争の日本遠征にて、韓国と日本の労働者が団結して闘ったことを契機に始まった。そして、不定期に交流が行われる中、1996年、民主労総全北本部の結成からは、定期的に、お互いに訪問や学習会を繰り返して草の根交流を行ってきたのである。今回もその一環だ。

しかし、その30年以上に及ぶ交流の存続が危ぶまれる出来事が最近起こった。2023年の11月に、民主労総全北本部の執行部が、選挙で“全員”入れ替わったのである。そして、新執行部の面々は、この連帯のことを知らないというのである。なので、この新執行部と、今後どうするという話し合いをするというのも今回の目的の一つである。

2.お酒を通じての交流

26日午前11時10分。私は南海電車を降り、関西国際空港内を全力で走っていた。初めての訪韓に興奮していたから、というわけではない。チェックイン締め切り10分前で、飛行機に乗り遅れかけていたのである。同行者二人が受付に話を通してくれていたおかげもあり、何とか間に合ったが、日本にいるうちから汗だくになった。今後は、乗り込み時間の1時間前には空港にいようと誓った。

そして関空から仁川空港へ。そこから地下鉄でソウル市に行き、現地の鈴木氏と合流。さらに、「新幹線」(KTX)で全北特別自治道の全州市へ向かった。全州市の駅に着いた時点で午後5時。そこで、民主労総全北本部副本部長以下4名の歓迎を受けた。そして、訪韓団の一人で、この連帯が作られる大きな要因ともなった中村氏の、80歳の誕生パーティーを開いてくださるとのことで、豆腐料理屋に向かった。そこで、アジアスワニー同志会や公共運輸労組、日韓連帯での訪日経験者など、30人以上の方々に囲まれ、おいしい豆腐料理をいただきながら歓待を受けた。その中にイ・ミンギョン民主労総全北本部本部長もおり、挨拶の段ではよく通る声で、微笑みながらスピーチしてくださった。雰囲気は良く、交流の存続は心配しなくてもいいかなと感じた。この時点では…。

あと、韓国に行く前に日本で教わった、「ファジャンシルン オディエヨ」という韓国語が早速役立った。意味は、「トイレはどこですか」である。

3.闘争を通じての交流

翌27日はまず、民主労総公共運輸労組全北平等支部が行っている、全州市役所前でゴミのリサイクルセンター従業員解雇の闘争に参加した。

闘争の経緯は以下の通りである。このゴミのリサイクルセンターというのが、市からの委託で、4つの民間企業が連帯で順々に経営しているものなのだが、今年、その4つ目の企業が経営する順番になった時、リサイクルセンター内にあった労組のメンバーが軒並み不当解雇された(雇用主側の解雇理由は、雇用継続の面談の際、態度が不良だったからとのこと)。それで、その元請けである市にどうしてくれるのかと迫っているということだ。

デモ活動の内容は、まず、市役所の正門横にテントを張って座り込みである。2月27日現在で56日目だ。そして、午前8時~9時の市職員出勤時間に、市役所正門前の歩道に陣取っての出勤闘争である。

今回、我々は出勤闘争に参加した。我々含めて14名の参加メンバーが横断幕やプラボードを掲げて歩道に立って、代表者がマイクで演説を行うという、日本でも見られるデモの形である。

この闘争に参加して興味深かったことをあげたい。まずテントについて。私の中にあったテントのイメージとは違っていて、8畳ほどの広さの中に、コーヒーメーカーやストーブ、飲み物食べ物、果ては簡易式の床暖房装置(オンドゥル)も置かれていた。快適とまでは言わないが、なかなか過ごしやすい空間である。次にデモについて、演説と演説の合間にポップな音楽を流していた。

以前、韓国の労組の宣伝部は、若い人を集めるために活動を楽しくするという思考で動いているというのを聞いたことがあるが、テントを充実させたり、音楽を流したりするのはその一環だろうか。確かに日本には不足している点である。

そして、出勤闘争後、テントの中でお茶をいただきながら、参加メンバーと懇談会を行った。1時間ほど、上記の闘争の事情やリサイクルセンターでやっていることを聞いたり、質疑応答したりしたが、その際、向こうの若いメンバーから、日本での労働活動についていろいろ質問があった。その中で、日本での労働組合活動はいつどのように始まったのかと聞かれ、答えられなかった。

日本に帰ってきてから調べてみると、日本で一番古い労働組合の記録は、明治17年の活版印刷工が組合を作ろうとしたことらしい。その後、元々主流だった産別組合活動が、太平洋戦争ですべて禁止、解散させられたこと、戦後、労働組合法の成立と、それによる企業別組合の大量発生ということで、質問からいろいろ調べたことで、日本では企業別組合が盛んな理由がなんとなく腑に落ちた。良い質問をしてくれたことに感謝するとともに、こんなことを聞いてくる韓国の若者の意欲に驚いた。

そして、見送ってくれる人達へ、「ファイティン !」と右手を掲げながらテントを後にした。

中途半端なところだが、文章が長くなってきたので、一旦区切らせていただく。次回はいよいよ全北本部へ乗り込んでの話し合いと、全北を離れてからのできごとである。この文章と同じように、韓国との親交が長くなることを祈りつつ、続きは次号で。(事務局 種盛真也)

関西労災職業病2024年3月552号