名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー09.Y氏労災認定申請資料
Y氏労災認定申請資料
1. 生年月日
1935年○月△日、○○に生まれる。
2. 職歴(略記)
- 1951年、○○市△△中学校卒。
- 1951年○月~1967年○月 プレス工、エンジン・発電機修理工、トラック運転手、電気溶接工、ガス溶断工、仕上工などとして数社において現場作業に従事。
- 1971年10月、名村造船に入社、現在に至る。
3. 名村造船における仕事の内容 作業環境及び作業実態
a) 71年10月~73年3月まで
造船部艤装課仕上げ組立工として勤務。
仕事としては、エンジン場においてポンプ発電機などの配管のボルトじめであったがエンジン場という密閉的な空間において電機溶接やガス切断等の作業が同時的に混在して行われており、溶接の際の煙を絶えず吸い込みながら仕事をするような状況にあった。
ひどい時には、例えば電気屋がパイプと床とのすき間を埋める作業をしている時に1m程の至近距離の真上で溶接の煙をまともに吸いながらボルトじめの仕事をする事があった。しかも溶接工の場合は、防塵マスクをしている訳であるがY氏などのボルトじめ工はマスクなどすることはなかった。又こうした場合には、溶接の光を目に受け1~2日目がチカチカすることもたびたびあったほどである。更に、エンジン場の充満する粉塵のためにコークスのような真っ黒なタンがしょっちゅう出た。当時造船業は最盛期をむかえようとしていた時期であり名村造船においても年間6隻の船を建造し大変な忙がしさであった。そのためY氏の場合も月40時間程度の残業を強いられ徹夜作業もすることがあった。
(注)当時、Y氏と同様のボルトじめ工は、本工で5~6人であった。72年10月頃から足のだるさを覚えるようになり、73年3月現在の職場に配転になる。
b) 73年3月16日~現在まで
造船部艤装課配管ステージにて勤務。
仕事はグラインダー(2kg)でパイプのツラを仕上げる仕事である。仕事量は多い時には、内径40A~60Amm、長さ2-3mのパイプ40~50本を仕上げていた。
74~77年においては仕事はきわめて忙がしく残業は多い時には月50時間もあり公休出勤もあり、ずっと過労状態が続き胃が悪くなり下痢をよくした。(過労はマンガン中毒の進行の程度を早める大きな原因である。)
その忙がしさは、週に1回職場の掃除をしなければならなかったがその掃除をする暇もなかったほどである。
(注)配管ステージの作業体制は本工1人(Y氏)、下請工4人であったが下請工は誰れでも最初の一週間は手のシビレを訴え、その後も仕事がきつく3ケ月~4ケ月でやめるものがほとんどであった。
4.症状の進行の経過と通院歴
- 72年10月頃から足がだるくなる。
- 73年3月、ボルトじめ工から仕上げ工に配転。
- 74年頃胃が悪く足がだるいので住之江区糸氏病院に通院。
- 75年初頃から歩行が少し不自由になる。
- 76年糸氏病院の紹介で富永病院に通院。会社を1ケ月休職。(健康保険で6割の給付を受ける)
富永にて、精密検査を受けるが不明。本人は「そのうち直るだろう」と思った。 - その後、名古屋の森下病院にて半年8回のハリ、キュウの治療を受けたが全く効果がなかった。
- 77年から記憶力の低下を覚えるようになった。
- 77年11月15日、身障手帳6級の交付を受ける。両上下肢しんせん麻痺による両上下肢機能障害。
- 78年3月頃、南大阪病院に通院。
当初神経科(?)にてパーキンソンではないかと診断を受け、内科にまわされた。内科で薬を一週間分もらい、のみ、しびれがひどくなった。78年頃より、頭、手、肩、などのしびれが激しくなった。会社で何度もころぶなど、すり傷が絶えなかった。ころんだままパイプなどに足をはさみ、動けないこともままあった。(注)視力:左、右・0.3
力が全くはいらない状態が続いている。
79年1月18日、松浦診療所に受診、「パーキンソニズム、頚肩腕障害」と診断される。