名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー15.名村造船溶接工報告書(昭和55年12月)
報告書
私は、溶接技能NKA級をもつ溶接工で、これまで約15年間この仕事をしてきました。
名村造船所には昭和43年から53年1月末まで、10年間竜崎組を通じて働いていました。名村造船所で私が従事していたのは、機関室での溶接の仕事でした。
1日の溶接棒の使用量は、1日中同じ太さの棒だけをたくということは実際ありませんが、同じ太さの棒を1日中たいたと仮定すれば、
4ミリの場合は、約12キロ
5ミリの場合は、約20キロ
6ミリの場合は、約25キロ
ぐらいでした。
これは定時の場合で7時間半の労働時間のときです。エンジン場での溶接のけむりのひどさについては、職場の安全会議が本工・下請工含めて月1回行われていましたが、「けむりが上に上るので、溶接を一斉にやると上の方で作業ができない」という声が、かじ屋の方からよく上っていたことを覚えています。
使用している棒の種類は、オートコン27、LB-26、B-14の三種類でしたが、溶接の肉ののびが良いB-14を使うことが多かったです。なぜなら、片側から溶接をするばあい、うら側にも肉がまわる性質をもっているのは、B-14だけだったからです。
また、換気については、エンジン・ベッドなどの底の方で作業を行うときは、ベビーファンと蛇腹(6メートル)を使ってけむりの排出をしていましたが、蛇腹の長さもあって排出するといっても、エンジン場の中に吹き出すだけで、船外に吹き出すことはありませんし、他の個所で作業を行うときには、換気のための装置は全くありませんでした。エンジン場で作業している人数は、主機塔載前は15~20人ぐらい、塔載後は、少なくとも10人ぐらい溶接工がおり、その他にも「かじ屋」が10人ぐらい仮付けの作業をやっていました。
以上まちがいありません。
昭和55年12月
住所○○○○○○○○
氏名○○○○○
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