名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー08.労災認定の足どり

労災認定の足どり

  1. 79年1月、名村分会に「労災だと思うが、相談にのってほしい」と、Y氏来る。
  2. 79年1月18日、松浦診療所で初診。「マンガン中毒疑・パーキンソン氏病、頚肩腕症候群」との診断をうける。歩行障害、手指のしんせん、四肢のしびれと脱力感、痛み、軽度の言語障害などの症状を呈していた。(医師意見書、参照)
    以来、マンガンが造船現場で使われていないかに調査にかかり、溶接棒の被覆剤にマンガンが含まれていることが分かる。
    全造船佐の安分会の粉じん測定の資料〔ろ紙)の再検査によっても、まちがいなく粉じんにマンガンが含まれていることが分かる。
    労災申請を行うべく準備をはじめる。
  3. この頃、Y氏は、ストーブ番などの軽作業に従事。しかし、現場で物にぶつかるなど、小さなケガはたえなかった。
  4. 3月28日、Y氏「診療所でマンガン中毒と頸肩腕と診断されている」と上司木島作業長に明らかにし、30日には「労災扱いをしてくれ」と申入れる。しかし、「だめだ。ここでなったのではないだろう。」と拒否される。
  5. 4月2日、全港湾として名村に「労災申請を行え」と要求書提出。同日2時半から4時半、Y氏に対し、造船重機名村労組大阪支部委員長、「全港湾に入っているだろう。組合をやめたらピケをはって会社に入れないそ」と脅しにかかる。
  6. 4月3日、全港湾建設支部S副委員長、S名村分会長(当時)、名村に出向き、津村鉄鋼部次長、山下勤労部主査に申入れを行う。
    名村は、「マンガンなど使っていないのでマンガン中毒になるはずがない」と拒否する。
  7. 4月に入り、かなり症状が悪化し、突進症が強く、通勤も困難となり、4月12日より休業。
  8. 治療のかいもあって、通勤はできそうなので、5月22日よりは、「従来通りの軽作業(注:ストーブ番程度)就労可」の診断書提出し、就労を申入れる。
  9. 5月21日、阿倍野労基署へ労災申請。名村は、「当社の業務に起因しているとは考えられない」と全面的に否定。労基署も全国ではじめての事例なので本省にりん伺することになるだろう」と慎重対応を表明。
    5月22日以降は、「安全上の問題を検討して返事する」と何度も引きのばし、以来「会社都合の休業」との口実で、休業手当(賃金の6割)を支払い、休業させつづける。
    経済的圧迫をねらった名村のやり方。
  10. 7月10日、労基署が大阪工場に立入り調査。Y氏立会い。すでに大阪では、新造船の建造は中止されており、「頚肩腕症候群」との関連で、グラインダー作業を行っていた配管工場、鉄鋼工場のみを調査。
  11. 7月23日、名村「伊万里工場(佐賀県)へは行けないだろうから、やめることを考えてくれ!」と退職勧奨。Y氏「ここで体が悪くなったのだから、金をもらってやめるわけにはいかない。私のからだをかえしてくれ。」と拒否する。以来、くりかえし「退職しろ」と迫られるが、拒否しつづける。
  12. 10月1日より、大阪工場、別会社「名村重機ドック㈱」にかわる。別会社の従業員は大阪工場の労働者が、丸のまま転籍したが、Y氏は、それからもはずされる。
  13. 80年2月26~27日、労基署の依頼で名村は伊万里工場で、マンガン粉じん測定。Y氏、I分会書記長(当時)とともに自費で伊万里へ行き、Y氏のみ立会う。結果は、勧告値(5mg/m3)の100分の1にすぎず、労基署側の専門家によっても「あまりにズサンだ」と批判されるというものであった。
  14. 6月29日、8月31日、11月24日と3度にわたって、名村分会、松浦診療所健診部の協力をえて、モギ実験を行い、マンガン粉じん量の測定を行う。4~4.5mg/m3の値をえる。認定の大きな材料になっていった。(資料参照)
  15. 81年に入り、阿倍野労基署から大阪労基局にりん伺され、交渉の舞台は局にうつる。5月20日、申請丸二年、局と集団交渉。「局の意見は、業務上ということでかたまった。本省に報告してから、正式にきめる」との解答。「大阪として自信をもって本省を説得しろ」と申入れる。
  16. 8月7日、阿倍野労基署、正式に認定。
  17. しかし、8月11日、79年5月22日からの休業補償は、「軽作業可であったのだから支払わない」と不支給決定。
  18. 8月27日、9月22日と、休業補償について交渉を行う。
名村造船所伊万里工場