名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー07.Yマンガン中毒労災認定闘争の経過とかちとった成果/全港湾建設支部各村分会

Yマンガン中毒労災認定闘争の経過とかちとった成果

全港湾建設支部名村分会

名村造船所は、大阪市住之江区に本社をもつ2万~3万トンクラスのバラ積み船やタンカーを建造している業界中手の造船所です。

60年代~73年の高成長の中で、造船産業も下請制度をテコとした低賃金労働者の犠牲の上に、世界一の座をしめるに至りました。名村造船にあっても、72~74年には佐賀県伊万里市に、8万トンドックをもつ新鋭工場を建設するに至りました。

Yさんが、名村造船所に本工として入社(1971年)し、発症の原因となったエンジン場(機関室)における配管作業を行っていたのは、ちょうどこの最盛期にあたります。

その頃、大阪工場では、本工1,000名、下請工1,000名によって2台の船台をフルに使って、年間6~7杯の船を建造し、まさに労働者は、残業また残業、休む暇もなく働きつづけてきました。

当時、エンジン場では、11.6%のマンガンが被覆剤に含まれる溶接棒(JISD4301規格)が多用され、連日10~20人の溶接工が一斉に溶接作業にかかり、ピーク時には1日200キロ、年間で4~5万キロの溶接棒が換気設置も不十分なまま使用されていたのです。

溶接工には、じん肺法が適用されており、防じんマスクを使用することになっていましたが、同じエンジン場で作業していたYさんはじめ他の労働者には、マスクの使用すら指導されていなかったのです。

同じ頃には、名村においては、年間4~5人、多い年には7~8人の死亡事故が発生するという状態が続いており、いかに安全無視で、作業が行われてきたかを物語っています。

〈認定闘争の経過〉

阿倍野労基署-大阪基準局は、「全国ではじめて」ということを口実に、また造船工業会からの圧力も考えてか、はじめから「本省りん伺事案だ」として慎重対応をきめこみ、実に2年3ヵ月の調査期間を要したのでした。

労基署での争点は、①マンガン粉じん量、②作業態様、③病名(パーキンソンにまちがいないか)、④溶接棒の1日当たりの総使用量などであり、組合では、①については、三度にわたるモギ実験を行うことによって、科学的に立証を行い局側専門家の鑑定意見も組合に近く、②については、組合意見書を提出し、③については、主治医松浦医師の意見書を提出し、局医にまわされましたが、局医も同意見という結論が出され、④については、同僚意見書を提出し、あらゆる労基署の疑問点を事実をもって明らかにしつくすことができました。

81年1月からは、局に交渉舞台が移される中で、局は、(ア)他の造船所ではどうかについて調査する。(イ)症状について確認するために、局医に見せたい。との意向を示してきました。(ア)についても、他の造船所においても同様の状態であることが判明し、(イ)についても、局医も主治医の松浦医師と同意見ということで、医学的・科学的にも、争う余地が全くないということで、ついに認定を下さざるをえないところまで到達することとなりました。

〈闘いを通じてかちとったもうひとつの成果〉

手さぐりではじまったこのYマンガン中毒労災認定の闘いを通じて、わが名村分会はもうひとつの大きな成果を、かちとることができました。この認定闘争が全国ではじめてで、困難が予想されるというばかりでなく、労働者としての基本的な姿勢の問題として、Yさんに対して、わが分会は、相談に来られた時点から、「労災に認められることをあてにせず、職場にくらいついてがんばることを第一に考えてくれ」と、Yさんの病状から見れば、無茶ともいえるようなことを提起しつづけてきました。

名村や造船重機の組合からの、さまざまないやがらせがされる中で、44才という働きざかりで3年生と幼稚園の2人の子どもをもったYさんが、気持をしっかりともって、自立してがんばることを要求したのでした。

この闘いの中で、認定までの2年3ヵ月間毎週2~3回、Yさんは、会社に出向き「6割では、食えないから、何とか仕事をさせてくれ」と、通いつづけたのです。

このことは、後に「労災休業補償」の支給問題で、労基署や会社が「働けたはずだ」と逆手にとる口実となりましたが、分会としても、Yさんにとっても正しかったことであると確信しています。

Yさんが、自分の問題さえしていたらということでなく、他の分会員の労災認定闘争などにも、積極的にかかわっているなど、自信をもって分会の闘いに参加していることこそ、認定闘争の勝利に加えて、もうひとつの大きな意義があると考えます。

今日の社会の中で、資本によって健康を奪われた労働者が、「救済」としての労災制度に、心身を委ねるのではなく、労働者の一員として、生活し闘っていくことの重要性を、いまさらながら感じとることとなりました。

〈認定以降も、引き続く闘い〉

名村は、現在にいたるまで、賃金6割相当額と夏・冬の一時金しかYさんに支払っていませんし、認定以降も「原因不明」と、少しも自らの責任を認めようとしていません。

現在も、賃金全額補償をはじめ、名村に対して、十全の補償を行うよう要求して、闘いが続いています。

この労災認定闘争は、10名全員解雇という状況ではありながら、全力でとりくんだ名村分会員ひとりひとりに、自信と勇気を、はかりしれないほど与えてくれました。今後もYさんをつつみながら、解雇撤回の闘いの勝利も、あわせてかちとるべく闘うつもりです。

Y氏と松浦診療所健診部、安全センター、研究者交流会そして名村分会
10名解雇撤回を求め大阪工場門前決起集会(80年1月26日)