名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー06.夫を支え、子どもたちを明るく育てることを胸に/Yw
夫を支え、子どもたちを明るく育てることを胸に
Yw
私は、名村造船のYの妻です。
実は、54年ごろから急に体の調子が悪くなり、一時はつかれだと思って、体を休ませれば良くなるだろうと軽い気持でおりました所、仕事場でも何回もころんだとか、又家におっても、歩行すら満足に出来ないようになっていたのです。
すぐ4月から休業となりました。当時長男3年、次男幼稚園でしたので、毎月の生活にこと欠く事は、一目瞭然でした。まず私が、主人のかわりと思って、パートの仕事はないかと、さがしあるきました。ある時は、日本橋、南、ナンバ等、何日も必死の思いでさがし歩いたものです。西も東もわからない私ではありましたが、ただ仕事場を夢中でさがしまわり、足のいたさはいまでも忘れられません。
又、私が仕事のために子供の参観日、運動会等は主人に行ってもらいました。家事も一切です。とかく病人があれば、一家が暗くなり、子供までがさみしい思いをするのではないかと、そればかり心配しました。どんな時でも、ぐちは言うまい、明るい子供に育てるのが、私達の一番大切な事だと思って、毎日自分に言い聞かせてきました。
主人の病名もよくわからないまま、あっちの病院、こっちの病院と歩きました。
そのとき、友人の紹介で、名村分会を知ることができました。見知らぬ私達に、ひとつひとつ自分の事のように耳をかたむけてくれるすがたは、頭の下がる思いで、何でも話をするようになりました。その後、松浦診療所を紹介して戴いたところ、労災ではないかということになり、精密検査をして戴きました。あれほどわからなかった病名も、「パーキンソン氏病、マンガン中毒」のうたがいとの結果でした。少しは心もやすまる思いでした。
会社では、私病と決めつけて、書類すら作ってくれませんでした。全港湾の皆様方にはある時は伊万里へ、ある時は労基署にと、何十回と足を運んで戴き、又ある時は、会社の工場の一室を貸して戴き、測定をさして戴いたり、又いろんな所でアドバイスをして戴き今日まで2年6ケ月になりますが、支部及び分会をはじめとした皆様方のお力で、今日までまいりました。
ほんとうに長い間の闘い、ありがとうございました。
今後も共にがんばってまいりますので、よろしく御願い致します。ありがとうございました。