名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー05.みなさんの御協力でかちとられた認定/Y

みなさんの御協力でかちとれた認定-認定のよろこびを新たな闘いのバネに-

Y

私は名村造船所の本工のYです。54年1月頃から体の調子が非常に悪くなりました。その前からも少し悪いのは分かっていましたが、どこの病院にいっても原因もわからないままに、もらった薬を服用すると余計悪くなり、ふるえやしびれが来るといった具合でしたので、薬ものむことすらできませんでした。その頃、近所の人にさそわれ名村分会の人にあうことができました。その後分会の紹介で、松浦診療所に行きました。その頃はまったく働けるような状態でなく、会社をやめようかと思うこともありましたが、「とにかくやめずに会社に行きながら、身体を直すように」といつも建設支部、分会、松浦診療所や安全センターの方々がはげまして下さいました。

54年3月頃には、病名も分かり、パーキンソン氏病(マンガン中毒疑)とのことでした。54年4月12日から40日間休業して治療に専念したところ、適切な治療のかいもあって、大分良くなり通勤はできるところまで回復してきたので、前やっていた軽作業につかしてくれるように申入れると、会社は「あんたの身体では、もどす職場がない」と「休職扱い」にし、賃金の60%しか支払わず、兵糧ぜめをねらってきました。

5月21日に労災申請を行い、会社の組合も協力するということを言っていましたが、組合とは名ばかりで、わずか一通の意見を提出しただけでした。その頃ちょうど名村は三回目の希望退職を募集しはじめ、10月からは大阪工場を別会社にする計画で、そのあおりで、「会社をやめてくれ」としきりに言われました。しかし、やめることはできません。会社で病気になったのですからやめません。

そして55年2月には、伊万里工場での環境測定を労基署が名村に命じてやらせましたが、私も交渉の結果、交通費は自費ということでしたが立会いをしました。しかし、そのやり方も結果もずさんなものだったので、名村分会、松浦診療所検診部、安全センター、そして治水分会の協力を頂き、モギ実験を三回行い、正確な測定結果を提出することができたことが、大きな力になったことと、心より感謝致しております。

阿倍野労基署での調査は、55年12月で終り、今年の1月からは大阪基準局との交渉にうつり、ようやく大阪で結論を出すということを確認させ、ついに認定をかちとることができました。ご支援・ご協力頂いた仲間の皆さまに心よりお礼を申し上げるとともに、今後今まで以上にきびしい苦しい闘いが待ちうけていると思いますが、なにがなんでもがんばりますので、より一層の御支援をお願い申し上げ、報告といたします。本当にありがとうございました。