名村造船所マンガン中毒労災認定闘いの記録ー03.古くて新しい職業病=マンガン中毒-二年有余の闘いをふりかえって-/榎本祥文

古くて新しい職業病=マンガン中毒-二年有余の闘いをふりかえって-

関西労働者安全センター 事務局長 榎本祥文

造船所におけるマンガン中毒が日本において初めて労災認定された。実に2年余にわたっ行政との闘いの大きな成果であり、全港湾建設支部名村分会、支部、地方本部、そして松浦診療所、安全センターの共同の財産であると思う。労組の闘いにとっての今回の認定闘争勝利の位置付けは分会の総括に委ねることにし、安全センターとしてはこの闘いを通じて実感したことを二つ述べたい。

〈「影響が大きすぎる」と政治的な労働行政の対応〉

第一には労働行政の労災認定作業がいかに政治的かということである。マンガン中毒は決しい新しい職業病ではなく、じん肺などとともにむしろ古い型のものである。

そしてその労災認定基準も昭和38年には既に整備されており(基発522号)、今回のY氏の場合にはその基準にさえ完全に合致しているものであった。

しかし行政はまず「溶接でマンガン粉じんが出るとは思わない」とつっぱったのである。この点は溶接棒にかなりのマンガンが含まれていること、また初歩的な実験結果で行政の主張は崩れた。次は「多少はあっても極あて低い濃度に違いない」といい名村造船の伊万里工場にて会社が行った測定値0.1mg/m3というような数字をちらつかせた。しかし、この点も、松浦診療所が行った本格的な模擬実験の結果で、勧告値である5mg/m3に近い数字が出ていることや、労基局の専門家さえが名村の測定のズサンさを指摘することによってその主張は崩れた。

次は「溶接のマンガン中毒というのはこれまでに聞いたことがない」である。これも外国文献の例などで崩れた。

いよいよ立場がなくなった行政は「本当にパーキンソンか」「溶接のヒュームの中のマンガンは酸化されているので無害ではないか」と苦しまぎれの無茶な答弁をくり返し、その全てが論破されると最後は「認定基準には合致するが、この本(偶然あった参考書)にはそう書いてない。」「造船工業会が反対している、影響が大きすぎる」といみじくも本音の論議に発展したのである。

最終的には労働省にも了承を得るという形で解決したわけであるが、この2年間に行われた論議は行政の労災認定のありようを実に端的に現したといえるだろう。我々は衆知を結集して、全ての論議に勝ち、労組をはじめ、安全センター等の組織的な力で「影響が大きすぎるので認めない」とは言わせなかったが団結権もなく、また相談する専門家を知らない被災者のことを考えた時、背筋が寒くなる思いである。

〈被災者切りすてをねらう行政改革をはねかえそう〉

第二には労災認定が決まった後の阿倍野労基署との「安田氏が労働できるか、労働不能か」の論議である。

紙面の関係で詳しくは書けないが、最近になって労働省は「労働不能とは原職に戻れないということではなく、一般的な意味だ」と必要以上に見解を示し、本年7月には振動病被災者に関する新通達を出し、原職である伐採作業にまだ就けなくとも休業補償を支払わないという指示を行った。

安田氏の問題については、全港湾、大阪総評、安全センター一体となった行政闘争によって安田氏が労働できない状態にあることを認めさせることができたが、今後このような攻撃が強まることが十分に予想される。そしてその背景にあるのが理不尽な「行革」であるといえる。労働省にとってもっとも安易な行革は被災者切り捨てであり、「労働できない」ことの極めて狭い解釈の強行は雇用不安が広がる現在の状況にあっては、被災者の生活権を奪うこと以外の何ものでもない。これまで被災者の闘いによって、リハビリ就労、部分就労権など、原職復帰に分けた諸権利の拡大が徐々にかちとられてきつつあったが、労働省はこれを否定しにかかっているのである。安田氏の闘いの中で現れてきた行政の諸々の対応は決して労基署なり労基局の偶々のものではなく、政府一労働省を貫く一つの意志であることを身をもって感じたのは私一人ではないと思う。

一つ一つの闘いの成果を大切にし、多くの労働者の共有財産とし、闘いのとりでを築きあげるべく我々は今後とも全力で闘い続ける決意である。

Y氏の休業補償につき、阿倍野労基署との交渉(1981年9月22日)