建設アスベスト訴訟 関西・大阪2陣(21回)原告本人尋問行われる 2020年10月30日

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中皮腫患者原告3名が証言

さる10月22日、最高裁において、建設アスベスト訴訟神奈川1陣上告審弁論が開かれた。最高裁判決の期日が指定されるかと注目されたが、追って指定とされた。最高裁には、ほかに、東京1陣、京都1陣、大阪1陣、福岡1陣が上告されているので、今後は、これらの最高裁弁論がどのようになるのかを含めて目がはさせない。

一方、建設アスベスト訴訟は、各地で2陣以降の裁判が進行中。関西では、大阪2陣、京都2陣が大阪地裁で審理中である

10月30日は、大阪2陣訴訟(大阪アスベスト弁護団担当)の3名の原告の本人尋問が行われた。いずれも胸膜中皮腫の困難な闘病の中、法廷に臨み、自身の職業歴、石綿ばく露歴を証言し、治療の現状と胸の内を語った。

NFさん(1952年生、男性)は1967年から約50年間、大工として働き、2019年6月に中皮腫と診断された。前回の7月3日、尋問途中で体調不良となったため、この日は残りの反対尋問が行われた。

KKさん(1960年生、男性)は1979年から約40年間大工として働き、2017年11月に胸膜が厚くなっていることを指摘され、2018年10月に中皮腫と告げられた。胸膜剥離手術を受けたが、再発し、60歳を前に廃業を余儀なくされた。抗がん剤治療中の体調不良をおしての出廷、証言であった。

Nさん(1961年性、男性)は1985年から延約15年間、現場監督として働き、石綿にばく露したために2017年に胸水貯留、2019年中皮腫と確定診断され、左胸膜肺全摘手術を受けたが、今年再発した。

以下にKKさんとNさんの声を紹介する。

中皮腫は憎いが、国や企業はもっと憎いです

本人原告・KKさん

私は子どもの頃から工作が好きで、18歳で大工見習いとなり、この道一筋に歩んできました。夏の暑さ、冬の寒さの中、一人でも多くの人に喜んでもらおうと心を込めて丁寧に家を作ってきました。その仕事で、吸わなくてもいいアスベストを知らないうちに吸い込んでいたのです。

2018年10.月、悪性胸膜中皮腫の診断を受けました。浜松の病院の主治医から良くない病気だと聞いて本当にショックでした。泣いている妻に「まだ死ぬわけでない」「なんとかなるよ」と言いました。兵庫医科大学で肺を温存して胸膜を剥がす大手術を受けました。手術の後の痛みはすさまじく、シャワーを浴びたときは息苦しさで本当に死ぬかと思いました。その後の抗がん剤治療は倦怠感や吐き気がすごく、臭いに敏感になり、病院食が喉を通らず、妻が作ってくれるおにぎりや麺類でしのぎました。

ところが9ヶ月後、がんが再発しました。再手術をしましたが、4ヶ月後にまたもや再発しました。主治医からは、もう手術ができないと言われてオプジーボに望みを託しました。しかし、それも効果がないと言われて、どん底に突き落とされました。中皮腫は、何回手術をしても抗がん剤治療をしても再発し、治療法のない恐ろしい病気であると身をもって思い知らされました。

日常生活では、手術をした右脇腹の痕が傷みます。1階から2階のリビングに上がるときに、はあ、はあ、と息切れします。風呂に入るときも湯気で息苦しくなります。本当に辛い毎日です。大工の仕事は足腰が立っ限りやりたいと思っていましたが、手術や抗がん剤治療のために現場に戻れる状態ではなく、58歳で廃業しました。本当に無念です。

私は、現在、妻と子ども2人と孫と暮らしています。中皮腫という病気にならなければ、苦労をかけた妻とのんびり旅行をしたいと思っていましたが、それもかないません。3歳になる孫がせめて顔を覚えてくれる小学生になるまで生きていたいですが、それまで生きられるかはわかりません。中皮腫が発覚する前に借りた事業資金や自動車ローン、リフォームローンなどが残っています。私が逝ってしまった後、家族が生活していけるのかとても気がかりです。

心を込めて人の家を作り続けた結果、病気になり、こんな理不尽なことはないです。中皮腫という病気は憎いですが、アスベストの危険性を知っていて放置した国や企業はもっと憎いです。責任を認めて私や残される家族に謝罪し、しっかりと償ってほしいです。

関西建設アスベスト訴訟原告団・弁護団チラシ2020年10月30日

これからというときに手足をもがれて、無念です

本人原告Nさん

私は、1988年から2002年までのうち約10年、現場監督して働き、石綿粉じんにばく露しました。58歳の誕生日を迎えて間もない2019年5月9日に愛知医大病院で悪性胸膜中皮腫と診断されました。

中皮腫との確定診断を受けたとき、私は言葉も出ないほどショックでした。治らない病気だということを知っていたからです。妻もショックを受けていました。

5月から抗がん剤治療を始めました。しかし、手術をした方が予後がよいということを知って、7月に山口・宇部医療センターで左胸膜・左肺の全摘手術を受けました。手術は成功し、3か月後に退院したときは、生きて帰れた、元気になりたいという思いに溢れていました。

しかし、今年9月、愛知医大病院で中皮腫が再発したとの告知を受けました。余命は1年とのことでした。いまは、オプジーボを使って治療を続けていますが、そのうちオプジーボも効かなくなるのではないかと不安です。死が現実なものとして身近に感じています。
日常生活で一番つらいのは歩くときです。平地で50メートルも歩くと息切れをして、階段を全速力で駆け上がった後のように、はあ、はあ、と肩で息をするようになります。そうなると30秒から1分は休んで息を整えなければなりません。息を整えている間、「災害で走って逃げないといけないときはどうしよう」と不安になります。

私は23歳で専門学校を卒業した後、ずっと建築の仕事に携わってきました。建築の仕事は私の人生をかけるに値する仕事です。45歳で一級建築士に合格し、53歳のときに独立して設計事務所を立ち上げ、その翌年には法人化しました。クライアントが安心して家を建てることができるよう、私がクライアントと職人の橋渡しをしたいと思っていました。しかし、中皮腫とわかってからは、治療に専念するため、仕事を受けていません。再発の告知を受けてからは法人も解散しました。これからというときに手足をもがれて、無念です。

国や建材メーカーは、アスベストがどういう被害をもたらすかわかっていたはずです。それなのに、経済や利益を優先して、アスベストを規制せず、その結果、無知な私たちが被害に遭いました。防こうと思えば防ぐことのできた人災です。アスベストを作り続けた建材メーカーやこれを放置した国の罪は重いです。国や建材メーカーはきちんと償いをしてほしいです。

関西建設アスベスト訴訟原告団・弁護団チラシ2020年10月30日