建設アスベスト訴訟、建材メーカーとの闘い続く-関西建設アスベスト大阪2陣、3陣法廷から

国と建材メーカーを相手取った建設アスベスト訴訟は、現在、建材メーカーとの法廷闘争を中心に闘われている。国の制度として、建設アスベスト給付金制度がスタートし、国とは法廷での和解が進んでいる。

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ただし、国が和解に応じようとしない事例もあり、国との闘いが全面的に終結したといえる状況にはない。
大阪地裁では、大阪アスベスト弁護団が担当する関西建設アスベスト訴訟大阪2陣・3陣訴訟やアスベスト訴訟弁護団が担当する訴訟が取り組まれている。

法廷では毎回、遺族原告の意見陳述、療養中原告の証人尋問が午後の時間帯一杯をつかって実施されている。2月25日法廷でも、2名の遺族原告(サイディング工、胸膜中皮腫で2019年74歳で死亡/水道配管工、肺がん後食道がんで2018年65歳死亡)が意見陳述し、3名の胸膜中皮腫(75歳ダクト工、2020年発症/71歳看板工、2020年発症/68歳内装工、2021年発症)が証言台に立った。

ここでは、大阪2陣・3陣の2022年1月14日法廷での原告の方の意見陳述を紹介する。建設アスベスト訴訟の「いま」を感じていただきたい。

絶対に許せません-57歳で中皮腫死

  1. 私は、Tの妻です。
    夫は、20歳から長年とび工として石綿粉じんを浴びる仕事をし、2018(平成30)年8月○日、悪性胸膜中皮腫で死亡しました。57歳でした。
    夫は亡くなる半年前の2月○日、悪性胸膜中皮腫の告知を受けました。
    3月中旬から6月にかけて2回の抗がん剤治療を受けました。激しい下痢と発熱の副作用でしたが、期待した効果がなく中皮腫は拡がっていきました。
    7月初めからの自宅での闘病は、発熱と痛みと呼吸困難との闘いでした。常に、38度~40度の発熱が続きました。右胸の痛みが激しく、手がむくみ、足も腫れ、身体中を痛がりました。呼吸は、ハーハーと苦しく、身体を丸めて耐えました。痛みと呼吸が苦しいことで、横にもなれず、座ってもいられない、身の置き所がない状態でした。それが、24時間続きました。ロキソニンを飲めば、熱と痛みは多少落ち着きますが、6時間の薬の間隔が3時間も保ちませんでした。流動物を口にできるという程度で、体力はみるみる落ちていきました。
  2. 8月2日に、重度の肺炎になり、入院しました。ベッドの上で座り込んで前向きに倒れ込むように前屈みとなり、身体を二つ折りにして座って過ごしました。栄養は点滴だけ、高濃度の酸素治療を受けました。モルヒネや医療用麻薬でも、痛みと呼吸苦は収まりませんでした。ひどい呼吸困難の発作で錯乱状態になり、管を自分で引き抜いて「家に帰る」と言って、暴れることもありました。
    楽にしてやって欲しいと思うほどの夫の苦しみでした。
    そして、8月○日、夫は、息を引き取りました。中皮腫の告知から6か月、坂道を転げ落ちるように悪くなり、逝ってしまいました。
    夫は、激しい痛みと呼吸苦の中で、私に、「自分は、ずっと苦労して頑張ってきた。しかし、最後がこれか。おれの人生なにやったんや。やりたいこといっぱいあるけどなあ。悔しいなあ。」と、ぽつんと言いました。そして、ぽろっと、涙をこぼしました。そんな夫に、私は、「そうやなあ、なんも悪いことしてないのになあ。あんたはいつも人のために頑張ってきたのにねえ。」としか言えませんでした。
  3. 夫は、生まれてすぐに、両親が離婚し、2歳で養護施設に預けられ、4歳の時に、Tのところに養子に来ました。不幸で、ひどい生い立ちでしたが、夫は前向きで、向上心がありました。
    夫は海が好きでした。ヨットの上級ライセンスを生かし、将来、子ども達を指導する仕事をしたいという夢を持っていました。
    夫は、結婚を控えた娘の式のために、「自分は金銭的なことは何もしてやれない。プレゼントに、結婚式には、ギターと歌で祝う」と言い、「花嫁」と「人生は紙飛行機」という歌を練習していました。
    夫は、8月の入院中にも、サンフラワーに乗って鹿児島まで行く、と震える手でメモを作り、スケジュールを立てていました。
    アスベストが夫の夢や希望をすべて奪いました。
    人生プラスマイナスといい、きっと最後はいいことあると思っていたのに、マイナスのままやんか、と、私は今も思い続けています。
    建設現場で働かねば、夫はこんな病気で命を落とすこともなかったはずです。アスベストが憎いです。悪いと知りながらアスベストをずっと使わせていた国や企業も絶対に許せません。
  4. コロナがあったから余計に思った事なんですが、国は、やろうと思えば治療法も考え、巨費を投入して治療薬の開発にも取り組む事もできるのに、アスベストの疾患は人にも移らないし、ましてや中皮腫なんて病気は稀にしかならない、だから、こんな病気には力を入れなくても良いんですか?何年も前からある病気なのに未だにたいした治療法もない。未だに、どれほど真剣に取り組んでくれているのか疑問です。

日本インシュレーションの建材だけが原因-肺がんが脳に、2ヶ月で死亡

  1. 私は、故Tの妻です。
    夫は、日本インシュレーションの専属下請けとして鉄骨に耐火被覆材を取付ける作業をしていましたが、このとき吸ったアスベストが原因で肺がんにかかり、平成11年9月○日に74歳で亡くなりました。
  2. 夫は昔から健康で、私の方が身体が弱かったので、夫が私より早く亡くなることなど想像もしていませんでした。
    そのため、夫が平成11年のお正月から体の調子が悪いと言って仕事に行かなくなったときも、同じ年の7月○日に「ふらつく」と言うので近所の病院を受診したときも、私はそんなに具合が悪いとは思っていませんでした。
    ところが、7月○日、医師は私に対して、夫は肺がんが脳に転移しており、あと2か月の命だと告げました。あの健康な夫がそんなはずはないと、最初は信じられませんでした。
    しかし、医師のその判断が正確であったことはすぐにわかりました。夫は、受診したその日に入院となり、入院して1週間ほどで目が見えなくなって、口もきけなくなっていきました。夫が毎日書いていた日記も、入院後は何を書いているのかわからなくなり、1週間ほどで書くこともできなくなりました。
  3. たった1週間でこれだけ悪くなるということは、その前から夫はギリギリの状態だったのだと思います。私は、「何でもっと早く気付けなかったのか」ととても後悔し、自分自身を責めました。私は、夫が何とか少しでも良くなる方法はないかと必死に調べ、別の病院でガンマナイフという放射線治療をしてもらったりするなど、できる限りのことをやりました。
    しかし、夫は少しも良くなることはなく、次第に声をかけても何の反応もなくなり、酸素と点滴のチューブに繋がれているだけで身動き一つしなくなりました。
    平成11年9月○日、初診から2か月も経たないうちに夫は亡くなりました。私は、辛さのあまり夫の死を受け入れることができず、ただ呆然としていました。
  4. 夫が亡くなった後、私は生きるために必死に働いてきましたが、平成30年頃、一人親方も救済されたというニュースを見て、夫も救済の対象かもしれないと思い、この裁判に参加しました。
    私が裁判に参加してからでも3年近くが経ち、その間に国とは和解が成立しましたが、企業との裁判はまだ解決していません。
    夫は日本インシュレーションの専属下請けだったため、私の関係での被告企業は日本インシュレーションだけです。夫は、当時の社長と友人で、その縁もあって仕事をすることができ、会社にはとても良くしてもらいました。
    しかし、あの頃、アスベストの危険性や適切な対策を教えてくれていたら、夫は今も元気で楽しく過ごしていたと思うと、やはりやりきれない思いが強いです。夫が病院を受診したときは既に手遅れで、夫はアスベストが原因で病気になったということを気づく間もなく、たった2か月で亡くなりました。
    私も、今月でもう89歳になりました。これ以上解決が長引けば私が生きているうちに解決するかもわかりません。日本インシュレーションには、1日も早く責任を認めて適切な償いをしてほしいです。

関西労災職業病2022年3月530号