位田浩弁護士インタビュー(アスベスト訴訟関西弁護団)/関西労働者安全センター運営協議会 委員紹介

これまで様々な労災事件に関わり、アスベスト被害が顕在化してからはアスベスト訴訟関西弁護団の事務局長を引き受け、アスベスト被災者救済のために活躍中の位田浩弁護士にインタビューに答えていただきました。

-出身はどちらですか?

滋賀県です。1982年4月に京都大学法学部に入学し、自治寮である京大熊野寮に入りました。当時、寮には片岡明彦さん(当センター事務局)や中地重晴さん(同議長)もいて、寮生大会などで発言されていたのを覚えています。

-当時から弁護士を目指していたのですか?

そうではありません。ただ、寮でいろんな運動に関わったおかげで、大学4回生のときに企業に就職する気持ちが湧かなかったので、弁護士になろうかと考えました。ちょうど司法試験の勉強をしている先輩たちが周りにいたことで、自分もやってみるかと勉強を始めました。6回生で大学を卒業し、一浪して司法試験に合格しました。その後、2年間の司法修習生を経て、1991年4月に弁護士になりました。最初は、難波にある上坂合同法律事務所で働きました。上坂事務所出身の大先輩が何人もいます。副議長の浦功弁護士もそうです。

-弁護士としてどんな事件に携わられたのですか?

最初に関わった労災裁判は大阪トンネルじん肺訴訟でした。弁護士になって1年目でした。仲田隆明弁護士が弁護団長、菊地逸雄弁護士が事務局長、私と同期の金井塚康弘弁護士と竹下政行弁護士が実働メンバーでした。4年ほどかかりましたが、和解で解決しました。トンネルじん肺訴訟はその後も5~6件やりました。
安全センター関係の事件では、はつりじん肺訴訟に取り組みました。この事件は、提訴前に勉強会をするなどして長い準備期間がありました。2009年12月に提訴して2018年5月に全面和解しました。原告のはつり工は15人で、被告の建設会社は大林組や竹中工務店などスーパーゼネコンを含む32社でした。
原告が被告の現場で就労した事実を証明する必要がありました。原告がはつり作業をした建物を覚えていれば、どのゼネコンの現場かを特定することもできますが、仕事が基礎杭の頭をはつるとか基礎工事の段階だったりすると、原告は完成した建物を見ていないし、また仕事の期間も短いため、現場を覚えていないのです。現場探しに苦労しました。

2005年のクボタショック後、アスベスト被害の電話相談を行い、関西と関東でアスベスト訴訟弁護団を結成しました。関西は浦弁護士が弁護団長、私が事務局長、関東は古川武志弁護士が弁護団長で始めました。
関西弁護団が最初に取り組んだアスベスト裁判は駅高架下建物訴訟です。近鉄の駅高架下にある商店街で文具店をされていた被災者が中皮腫で死亡されたケースでした。店舗の2階部分を在庫商品置き場に使っておられたんですが、そこは吹付アスベストがむき出しになっていました。2006年6月に近鉄に対する損害賠償訴訟を提起しました。吹付アスベストのある建物所有者の責任を問う初めての訴訟でした。
第一審と控訴審は民法717条の工作物責任を認め、近鉄に賠償を命じました。近鉄は賠償金を支払ってきましたが、最高裁に上告しました。上告はすぐに棄却されるだろうと高をくくっていたのですが、3年くらいして最高裁から弁論を開くという連絡が来ました。最高裁が弁論を開くのは、控訴審判決を見直す場合です。もしも判決が覆されると、近鉄から受け取った賠償額に年5分の利息を付けて返さなければならなくなります。冷や汗をかきながら迎えた判決は、高裁への差し戻しでした。建物の「瑕疵」はいつからあったといえるのかを高裁で審理し直すことになりました。2014年2月の差戻審判決は、1988年に学校アスベスト問題が大きく騒がれて国が吹付アスベスト対策に関する通知をしたときには「瑕疵」があったとして、近鉄の責任を認め、差戻し前と同じ内容の判決を下しました。近鉄は上告せずに判決が確定しました。

-外国人労働者の労災損害賠償裁判もいくつもお願いしましたね。愛知県で機械に足を巻き込まれたジョンさんや滋賀県で指をケガしたベロニカさんなど、就労資格がなかった労働者の補償を勝ち取ってもらいました。

外国人労働者の労災事件もありました。外国人の場合、日本人と同じ怪我をしても損害額を低く見積もる裁判所の論理と闘うことが重要でした。
ほかには、三田市や宝塚市の給食調理員の指曲がり症の公務災害認定訴訟、胆管がんが多発したSANYO-CYPとの補償交渉、インジウム肺や超硬合金肺のじん肺訴訟もやりました。

-労災以外にはどんな事件をされてきたんですか?

大阪精神医療人権センターというNPO法人で精神病院に入院している患者さんの人権問題にかかわっています。弁護士になって3年目に大阪府柏原市にあった大和川病院で入院患者が殴られて死亡する事件があり、患者の遺族から依頼を受けて損害賠償訴訟を起こしました。他の入院患者からも相談が寄せられ、弁護士が面会に行っても病院が患者に会わせないため、私たち弁護士が原告になって病院を訴えて勝訴判決を得たりしました。この病院は、看護師らの数が少ないのを隠す偽装工作をし、関連病院分を含めて医療費を何十億円か不正に得ていたことなどから、最終的には廃院になりました。
そのほかには、関西生コン事件の刑事弁護人をしたりしています。

-仕事以外に、趣味はなんですか?

海外旅行が趣味ですが、最近は行けていません。
趣味が高じて、1995~96年にかけて1年間バックパッカーをしました。アイルランドから北欧に行き、東欧の国々を回りました。最後は、中東のエジプトやシリア、イランまで行きました。子どもが小さいときは、家族でオーストラリア、カナダ、アメリカなどを旅行しました。最近は、一人でひなびた温泉に行きたいなと思っています。

-今後の抱負は?

弁護団で取り組んでいる建設アスベスト訴訟は、まだまだ続きます。多くの建物に石綿が使用されている以上、古い建物の解体や改修が深刻な問題を引き起こすのではないかと心配しています。今後も、働く人たちの命と健康を守るための活動にかかわっていきたいと思います。

関西労災職業病2025年10月570号