旧朝日石綿大阪工場における運送業者の石綿被害/大阪
昭和13年生まれの被災者は旧朝日石綿大阪工場(大阪市平野区加美南)の構内に事務所を構えていた運送業者の従業員として、昭和34年2月から働きはじめ、昭和52年12月には代表取締役に就任し、昭和63年9月の退任まで28年以上もの間、石綿の原石を工場内に搬送し、製造された石綿建材を各工事現場に搬送する仕事に携わってきた。
その結果、令和2年10月に良性石綿胸水を発症、しかしこの疾病を石綿関連疾患として認識する医者に恵まれず、転医を繰り返し、ようやく令和6年2月に業務上認定を受けるに至った。
被災者はもともと土木工事を請け負う事業所でダンプ運転手をしていたが、妻の実家を手伝うことになり、石綿と石綿製品との付き合いが始まったと認識している。
被災者は、神戸港の倉庫へ行き、荷揚げされたドンゴロス(麻袋)に入った石綿をトラックに積み込み、工場まで搬送する。運送中に袋が破損し、新しい袋に入れ替えるために素手で石綿を掴んで入れ替えていた。軍手を使うと、石綿が軍手にまとわりつくので不具合だという。
石綿を運んだトラックはそのまま倉庫まで入場するが、そこは倉庫兼製造現場であり、石綿が含まれた袋を開けて石綿が機械に投入されていた、ということなので、おそらく混綿がされる工程があったのだろうと考えられる。
出来上がった石綿建材、たとえばスレート材や、吹付材であるブローベストは、これもまた被災者の所属事業所によって各工事現場に搬送される。倉庫に置ききれなくなったブローベストは事業所が大阪工場外に持つ自社施設や駐車場に置いていた、というほど多く扱っていた。さらに、現場に入ると単に運んで資材置き場に搬送するだけではなく、吹付材を作る手伝いもした。
このようにトラック運転手とはいえ、常時高濃度の石綿粉じんにばく露する環境にいたことにより、石綿関連疾患に罹患したのであるから、疾病の性格上本省の判断待ちのために1年半を要したものの、業務上と認定されたのは当然の帰結だった。
次に行うべきことは、石綿健康被害に対する国家賠償請求か、建設アスベスト給付金請求かの選択である。すでに述べたように昭和35年から昭和52年までの間に石綿建材製造工場に入場してばく露した事実があり、昭和35年以降昭和63年までの間に石綿建材を建設現場に搬入し、手元作業を行ったという経歴もある。決着が早いのは建設アスベスト給付金請求かもしれないが、被災者が代表取締役になった時期が昭和52年であることや、その後のばく露が否定されるかもしれない要因がいくつか見つかったので、国家賠償請求訴訟を提起することになった。
近年は、被告となる国も粘り強く釈明を求めてくるようになり、第三者の証言や客観的資料を求める傾向にあると聞いている。本件被災者のケースでも、多くの資料が求められるものと十分に準備し、早期和解を果たすことができた。
被災者の職場では、先々代の事業主の子(長女・三女・四女・五女)とその配偶者も従業員として就労しており、かなりの割合で石綿関連疾患に罹患しているにもかかわらず、被災者以外に業務上認定されているのはわずか1名である。
それぞれの被災者に適切な救済がなされることを目指すとともに、多くの被災者を生んだ朝日石綿大阪工場にも補償を求めていかなくてはならない。
関西労災職業病2025年7月567号