災害に泊まり込みで対応した市役所職員、脳出血で死亡。公務災害に認定-地公災基金和歌山県支部
多くの被害をもたらした台風20号
台風による災害対策にあたった和歌山県・田辺市役所の対策責任者の職員が対応後に脳出血で意識不明となり、翌日亡くなった。遺族は公務災害申請し、業務上と決定された。
2018年8月、ミクロネシア連邦のチューク諸島近海で発生した台風20号「シマロン」は、北西に進みながらその威力を増し、四国沖から進路を徐々に北へと変え、徳島県南部に上陸、瀬戸内海を越えて本州の兵庫県に再上陸後北へ抜けた。その後は日本海を北上しながら東へとカーブしていき、秋田県沖で温帯低気圧に変わった。和歌山県田辺市では、台風20号が接近した23日午前9時ごろから大雨警報、洪水警報と発令され、市役所では危機管理局長であったAさんを中心に対応を開始した。
市役所の防災体制は、警戒レベルが上がるにつれ、「警戒準備体制」、「警戒体制」、「災害対策準備室」へと格上げされることになっている。23日午前10時に「警戒体制」となった後、田辺市全域に避難準備・高齢者などの避難開始を発令した。午後5時40分には田辺市全域に大雨警報、本宮地域に洪水警報、本宮湯川地区には7時30分に避難勧告、大塔川の水位が急上昇し、8時45分に避難指示を出した。9時40分から次々と土砂災害警戒情報が発表された。
9時58分には避難勧告を市全域に拡大し、防災体制を副市長を長とした「災害対策準備室」に格上げした。
強い雨はその後も続いたが、翌日午前3時過ぎには一部の地域を除いて、暴風・大雨警報が解除され、体制を「警戒体制」とした。その後、一部の洪水警報を除いて警報が解除され、避難者も自宅に戻ったことから、午前6時に体制を「警戒準備体制」とし、185カ所の避難所のほとんどを閉鎖するとした。
ところが、午前9時12分に本宮地域に再び大雨警報がでて、職員体制を再編成した。土砂崩れの被害情報や市道の崩落により孤立状態になった地域もあり、現状把握や対応に追われた。昼前に警報解除、体制も解除したが、Aさんは、夕方まで被害情報収集、確認と対応に当たり、自宅に帰ったのは午後6時だった。
ところが、翌日午前10時頃、自宅でけいれんを起こして救急搬送されたが、翌日の早朝に亡くなった。脳の血管からの出血、「橋出血」が死亡の原因だった。
来なかった副市長
突然のことにAさんのご家族は大変なショックを受けた。これまで健康に何の問題もないと思っていたAさんが、あっという間に亡くなってしまったのだ。直前の仕事でいったい何があったのか、疑問に思うようになっていった。
役所に泊まり込んだ翌日24日午前9時半にはAさんから「一旦帰ってでなおします」というLINEが入っていた。しかし、11時前には「帰れない、風呂入りたい」と送られてきて、午後には「しんどい、寝てない、すぐ帰る」「たおれそう」「体調悪い」というつらさを訴える内容になった。
また帰宅後に、Aさんは防災体制の長である副市長が電話連絡しても「もう寝るから」と言って役所に来なかったという話もしていたし、同僚からも大変だった様子を漏れ聞いた。
Aさんの死は、直前の仕事が原因ではないのか、ご家族はそう考え調べ始めた。
Aさんの奥さんと息子さん、娘さんたちは、役所を訪問し聞き取りを行った。4つのセクションの計7人が応じた。
夜遅くに雨風が強い中、全域避難勧告を出せば市民の命の危険にもかかわるのではないかと、非常に悩ましい状況であったこと、翌日に職員は交代できずに休憩もほとんど取れずに、再度の警報に対応したり非常に緊張が続いたことなど話が聞けた。
副市長についても、「災害対策準備室」に体制を強化する時点でAさんが連絡したが、その後、Aさんが「副市長は来ない、もう寝ている」と言っていたというようなことを複数の人が聞いていた。また明け方の落ち着いたころにAさんに副市長に連絡するよう言うと、「副市長は寝ているし連絡したら怒られる」と言っていたとも証言した。
市は公務災害の請求に消極的で、請求人となるAさんの妻が請求書を提出できたのは、12月20日のことだった。
死の直前の業務の過重な負荷のみで業務が原因と認められるのか、負荷となった災害対応の状況や副市長の不在などの事実関係も認定されるのか、遺族の不安はつきない。
関西労働者安全センターへは、9月に遺族が相談した弁護士を通して連絡が入り、請求書の作成や事実を補完する添付資料の作成にアドバイスを行った。
できる限りの客観的証拠を収集したが、職場の人たちの証言については、今後の役所内での立場をおもんばかって、遺族が誰それからこういう話が聞いたと記述するにとどめた。
本来なら、初めての大型の台風の対応、責任ある立場で、しかも避難勧告を出したり、洪水や土砂災害が相次ぎ、市内の何か所もが通行止めになるような状況に即座に対処しなければならないという事態であったので、Aさんには相当過重な負荷がかかったと考えられ、すんなり業務上認定となるはずである。しかし、「絶対」とは言えず、奥さんたちと結果を待った。
市からは説明なし
請求後、地方公務災害基金からはいくつかの点を追加で確認された。その中には、副市長のこともあった。追加回答を翌年4月に送った後、6月に公務災害と認められた。
遺族の努力、それにAさんが頑張ったことが認められ、とても喜ばしいことだった。ただ遺族は、いまだに市からAさんの死の直前の業務について、詳しい説明が行われていないことに納得がいかなかった。
告別式に参列した副市長からは直接にはお悔やみの言葉もなく、遺族が市役所を聞き取りに訪れ、台風対応の業務体制に疑問を呈していることは分かっているはずであるにもかかわらず、なにも動こうとはしていない。
Aさんを知る他の職員たちは、「心のある人」「部下思いで嘘をつかない人」と語っていた。まっすぐで部下に慕われ、ユーモアもある人だった。そんなAさんの遺族に対する市役所の態度との温度差は大きい。
遺族は、事実関係の説明と、今後の再発防止を求めている。
夜通し防災指揮後急死 再発防止はー田辺市18年台風20号(朝日新聞2021年7月21年朝刊)
夜通し防災指揮後急死 再発防止は
田辺市18年台風20号
田辺市を襲った2018年8月の台風20号で、市役所の防災体制の指揮をとった危機管理局長(当時57)が直後に亡くなり、地方公務員災害補償基金が「公務上の災害」と認定していたことがわかった。(下地毅)
職員に「公務災害」認定
20年6月16日付で認定した基金の資料などによると、危機管理局長は18年8月23日から24日にかけて強いストレスに襲われていたことがうかがえる。田辺市の資料によると、このときの気象情報は23日朝の暴風警報をかわきりに、大雨警報、洪水警報、土砂災害瞥戒情報とめまぐるしく変わり、夜までにこれらの発表は計20回にのぼった。避難情報も避難準備・高齢者等避難開始から始まり、夜になって避難勧告へ、さらには一部地域への避難指示(緊急)へと警戒の度をあげていった。
台風20号が最接近した23日夜、局長は深く悩んでいた。
避難勧告を市の全域に出した場合、見通しの悪い夜間に避難行動をとった市民が、かえって台風による強烈な風雨の被害に遭うのではないか。
避難勧告を出さなかったら、すでに市全域に土砂災害警戒情報が発表されているなかで、自宅にとどまった市民が土砂災害に遭わないか。
この「はざま」に苦しんだすえに局長は23日午後9時58分、市全域への避難勧告を発令し、災害対策準備室の設置を決めた。
その後、暴風雨のピークがすぎたため警報は順次解除され、市の防災体制も縮小していった。
ところが24日朝に大雨警報が再び出たため、夜通しの勤務だった局長は休む間もなく対応に追われた。
帰宅は24日午後6時ごろになった。翌朝にけいれんしている姿を家族が見つけて、26日午前5時56分に脳出血のひとつ「橋(きょう)出血」で亡くなった。
基金は「実質的に災害対応の指揮を執り、最終的な判断をせざるを得ず、また、ほとんど休息する間もなく業務に従事したものであることから、強度の精神また的又は肉体的負荷を受けたものと認められ、異常な出来事・突発的事態に遭遇した」と判断し、公務災害と認定した。家族、当日体制などに疑問/没後3年いまだ市から説明なし
「風呂入りたい」「しんどい、寝てない」「たおれそう」「体調悪い」……。悲痛な言葉を家族にLINEで送っていた局長は、24日午後6時ごろに帰宅した。
疲れきっていた。日ごろの快活さは消え去つていた。夕食をとりながら、夜間の判断に苦しんだこと、災害対策準備室を設置したあとも上司の副市長が市役所に来なかったことを家族に語った。
市地域防災計画などによると、市の防災体制は①警戒準備体制(50人)②警戒体制(150人)③災害対策準備室(300人)④災害対策本部–の順番で設置される。
①と②は局長が指揮をとり、③は副市長が室長に就くことになっている。
③の災害対策準備室を設置したあとも副市長が自宅待機のままだったことについて、田辺市は基金の調査に「副市長にはいつでも連絡ができる状態だった」「災害対策準備室設置以降は暴風雨のピークが過ぎていたこともあり、局長に判断が集中したという状況ではなく、自宅待機中の副
市長らに判断を求める事案もなかった」などと回答している。
家族が知りたいことはいくつもある。当日の体制は十分だったのか。再発防止策はどうなっているのか。なによりも市が自ら家族へ説明に来ないのはなぜかだ。
朝日新聞が取材を申し込むと、市総務課は「家族の意向」を確認する必要があると答えた。しかし約2週間後に「答える必要がない」と回答した。繰りかえし説明を求めても「個人情報」として明らかにしなかった。
家族によると、市総務課はこの間、「意向」の確認を一切していない。
家族はつぶやく。「人がひとり死んでいる。しかも市の業務で死んでいる。このまま『ふた』をしたいのでしょう」
市総務課は取材に回答しない理由に「まずは家族に説明する」もあげた。局長の死から3年が経とうとする今も説明していないと問うと、担当者は「家族から要請があればということ」と答えた。朝日新聞朝刊-第2和歌山面2021年7月21日
関西労災職業病2021年9月525号
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