ゴム工場元労働者O氏の胸膜中皮腫の診断に至るまで:アスベスト混入タルクによる中皮腫
大成功一(市立堺病院・内科医師)
確定診断に影響したばく露不明
大塚氏が原因不明の胸水で入院されたのは1990年1月5日である。このとき、胸膜中皮腫を一度は疑いながら、職業歴からアスペストやタルクの使用を確認することができず、診断をつけることができなかった。そのため確定診断ができたのは第2回目の入院の91年7月になってからであった。1年半の診断の遅れに反省をこめて経過を振り返り、今後の教訓としたい。
右胸水発見で入院
大塚氏は内科初診の5年前、当院外科で胆石の手術を受けている。退院後、外科外来に定期的な通院を続けていた。
89年12月末ごろより、急に階段を登るときなどに息苫しさを覚えるようになった。90年1月5日、外科受診時にそのことを訴え、胸部レントゲン撮影を受けると、右胸腔に中等度の胸水が認められた。そのため、内科紹介され、胸水の原因の精密検査のため即日入院となった。
胸腔にカテーテルを挿入し吸引排液すると、胸水600mlが排液された。できる限り排液したのち胸部断層写真を撮り、肺炎・肺結核・肺がんの特徴的な陰影があるかどうかを判定した。
しかし、肺内に異常陰影は認められない。胸水を細菌培握、細胞診その他の検査に出すが、特異的な所見は見当たらない。このように通常検査で原因不明の胸水は主治医泣かせである。
次の段階で診断のためにとられる方法としては、生検針による胸膜生検か、抗結核剤の試験的投与(診断的治療と呼ばれ、投与して胸水が消失すれば結核性と考えられる)がある。このケースでは後者を選択し、1月13日から投与を開始した。
しかし、抗結核剤の投与にもかかわらず、胸水は2週間にわたって増え続けた。また、喀痰細胞診で一度だけだが、癌の疑いのある細胞が見つかった。追いかけるように̪が嗄声が出現した。また、胸部CT、胸部断層写真で横隔膜に石灰化をともなう細長い胸膜肥厚を数条認めた。これはアスペストーシス(石綿肺)の胸膜プラークに酷似している。もしもアスベストばく露歴が証明されれば胸膜中皮腫の可能性も考えられる。1月27日、中皮腫の時に上昇するといわれている胸水のヒアルロン酸測定をしている。思えばこの時期、正しい診断の一歩手前にいたのだが。
しかし、胸水のピアルロン酸は正常値であった。問診しても患者の職業は「ゴム工場勤務」であり、作業工程をくわしく調べてもアスペストを扱った形跡がない。主治医にとっては悪性腫瘍の疑いがありながら決め手に欠ける苦しい時期であった。家族への病状説明で開胸胸膜生検をする必要があるかもしれないと告げる。家族は生検には積極的ではなかったが、主治医が強く勧めれば了承されただろう。そのまま生検を強行してみればこの時診断がついたはずだ。ところが、皮肉にもこの時期に相次いだ次の2点が診断を中皮腫からそらす修飾因子だった。
診断そらした二つの修飾因子
第1に、このころから、胸水は減少をはじめ、消失した。抗結核剤で消失したからには結核性の可能性が高い。それなら、胸膜石灰化もブラークではなく、古い結核性胸膜炎の瘢痕なのかもしれない。
第2に、それに追い打ちをかけるように、2月28日、嗄声で受診中の耳鼻科で喉頭がんが見つかった。嗄声と喀痰細胞診の結果はこれで説明がつく。病巣は小さいので治療としては放射線療法(リニアック)で根治可能である。
結局この時の入院では生検せず、「結核性胸膜炎+喉頭がん」を最終診断としてしまったのである。生検を行って中皮腫と診断したのは、1年半後、病状が悪化してからのことであった。悪性胸水も無治療で消失することもある。一つの癌が見つかっても、もうひとつ重複癌ということもある。初回入院で生検しなかったことが悔やまれる。臨床家として、もって銘すべし、であろう。
アスベストばく露歴の洗い直しへ
診断が確定してからあわてて安全センターに相談し、アスペストばく露歴を洗い直すことになった。原因は思わぬところに潜んでいた。ゴム工場では製品がくっつかないように、タルクを「打ち粉」としてゴム表面にまぶす。この「打ち粉」を容疑アリとして疑ったのは安全センターである。「打ち粉」の成分をタルクと特定し、文献をあさって含まれるアスペストによる危険性を証明したのは別稿を書かれている熊谷さんである。私は一臨床医としては職業歴には注意をはらっているつもりであったが、作業工程に当事者さえ知らない落し穴が潜んでいることを考慮していなかった。もし自分で「打ち粉」まで聞き出すことができていても、アスペストしか念頭になかったのでタルクのことまでは思いつかなかったかもしれない。安全センターとアスペスト対策大阪ネットワークの賜物である。
大塚氏は忍耐づよく闘病生活を送られ、今年2月1日永眠された。御冥福を祈ります。
関西労災職業病1992年4月205号