なにわユニオン執行委員 有田具弘さんインタビュー/関西労働者安全センター運営協議会 委員紹介

有田具弘さん

安全センターと事務所を共有するなにわユニオンの執行委員で、当センター運営委員として会計監査を担っている有田具弘さん、これまでの活動について聞きました。

-労働組合の活動家の道に進んだのは何かきっかけがあったのですか?

学生運動をしていた時代から、将来、組合活動をしようとひそかに思っていました。
たまたま入った職場は大阪府、自治労大阪府職(自治労大阪府職員労働組合)の職場で、全員労働組合に加盟していました。なにか発言したりしたことから組合の活動家に目をつけられたようで、入職後間もなく昼休みの職場集会で司会をやってくれと言われて、司会をしました。なので、組合デビューは早くて、半年後には青年部の役員になり、3、4年目で分会長になっていました。分会長として、課長相手に交渉もしていました。みんな若かったです。青年部は30代くらいまでなんですが、そのときの平の職員は全員青年部で20代、雰囲気もよかったです。1975年ごろのことです。支部役員はずっとやっていました。

-ユニオンひごろでもずっと活躍されていましたね。

大きな節目になったのは1980年代後半の連合結成です。府職は共産党系だったので、連合には批判的でした。自治労は全体には社会党系で、共産党系はそこから出ていこうとしました。連合側にも共産党系を排除しようとする論理があって、それも問題でした。府職の社会党系の少数派が分裂して組合を作ることになりました。
私はどちらかというと社会党系だったのですが、反連合の立場を貫いたので、分裂した自治労府職にはすぐには行きませんでした。そのときに反連合派の知り合いがたくさんできました。そうこうしているうちに、ユニオンひごろ(総評東地域合同労働組合)のメンバーと知り合いました。
僕は初期のゼネラルユニオンメンバーでもあり、大阪の全労協の大会などでひごろのタイムス労組の都留伸吾さんらと知り合いました。都留さんにユニオンをやらないか誘われて、自治労大阪府総務支部の役員だった馬谷憲親さんが地域のユニオンとの関係を重視していたので、ひごろから派遣を求められている話をすると、あなたがやったらと言われ、92年に私がユニオンひごろをやることになりました。
ひごろでムソー分会の担当をしていて、ユニオンの活動はとても面白かった。団交では社長と直接交渉してやりあい、実際その場で決まるので手ごたえを感じました。
当時、ユニオンひごろの専従は岡崎栄子さんで、彼女ががんばっていたというのも大きくて、セクハラの問題もいろいろ取り組みました。実際に交渉に行って、ハラスメントを受けた人の無念さがよく伝わってきました。思い悩んでやっとユニオンに相談に来てくれて、交渉して100%の解決は無理でも、なんとか解決すればうれしく、勝利報告集会で本人の嬉しそうな顔を見れば、ユニオンをやってきてよかったと思います。
96年になにわユニオンが発足、2003年にユニオンひごろ、ユニオンとうなん、北大阪ユニオンをなにわユニオンに組織統合して一本化しました。一本化してから、専従の中村研くんががんばったのもあって、組合員数は増加して、最大で400人くらいになりました。
大きな職場もいくつかありましたが、その後、最初のメンバーが次の世代に支部長を引き継いで抜けると、継承はできたがやはり保たなくて解散になっていきました。それはちょっと悲しかったです。

-なにわユニオンでの取り組みは?

今現在はなにわユニオンの組合員は60人ほどで、外国人もいるのが特徴です。事務所がRINKと安全センターと一緒になっているので、それがいいのかなと思います。
最近ベトナム人の妊娠・出産相談が2件続きました。若い技能実習生が来ると当然妊娠・出産することもあるし、言葉も分からないし、職場に理解がなければ「国に帰ってくれ」と言われてすごく不安になる。
国としての移民政策はなく、民間に丸投げしていようなもの。少子化でもあるし、外国人は益々増えるので、きちんとしてほしい。
あと職場のハラスメント問題が多くて、露骨なものは減っているかもしれないが、男社会で働く女性はセクハラとパワハラと二重にハラスメントを受けていることもある。そういうのをたいしたことないとすると間違うんじゃないかと思っていて、そこを丁寧にやっていかなければいけない。
パワハラの定義に微妙に当てはまらないものがあり、早い段階でユニオンが入って、いかに働きやすい職場にしていくか話し合うのが大事だと思う。関係を作って、当該が働きやすくなるのが目的と会社によくわかってもらうのが大事なこと。パワハラの事実を認めさせようと交渉しても会社はなかなか認めない、結果的にはパワハラを受けた人が辞めることになる。裁判まで争って仮に裁判に勝っても、職場復帰はできないしつらいですね。
大阪府には60歳の定年後も再雇用されて65歳まで働いて退職しました。今は72歳です。組合活動も50年ですね。
職場の組合活動のいいところは、必ずしも意見が一致しないとか、意見が違っても、関係が持続するところです。市民運動では、意見が違うと、関係が切れることが多い。それは組合の面白いところだと思う。それがいいのかもしれない。

-ほかにも市民運動をいろいろされていましたね。

「日朝共闘」は、やはり馬谷さんから誘われて参加しました。88年のソウルオリンピックのころです。韓国の独裁政権に対する民主化闘争に連帯する活動を行っていました。
また、組合活動の延長で、1984年に自治体に条例ができてすぐから、情報公開に関する活動をやってきました。88年9月ごろに「知る権利ネットワーク関西」が結成され、その後、2001年4月に情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律)ができました。これは今も続けています。
大阪労働局へ派遣法違反の疑いがある事業所をまとめた文書の公開を求めたりしました。文書を調べれば、派遣法違反の内容が分かると思って、請求しました。厚労省は行政指導を行っても会社名は絶対出さない。法人の利益に反するということで。メディアが報道した事業所名でも出さないとがんばることがあるのは、本当におかしいと思う。結局事業所名の公開は最高裁まで行って負けましたけど、裁判をやった結果、最初は全くの非公開だったのが少し公開されました。
この活動でいろんな人と出会いました。堺市で政治資金収支報告書のコピーを求めた野村孜子さんとも知り合いました。

-組合活動の他に、楽しんでいることはありますか?

趣味はスキーです。府職の総務支部のメンバーに誘われて、若いときから、毎年行ってたんですが、一時、中断して、再開してから15年くらいかな。自転車も趣味だったんですけど転んで大腿骨骨折して、それから怖くなって乗っていません。スキーは無理しなければまだ続けられると思います。


有田さんは72歳ということですが、現在もユニオンで労働者からの相談に忙しく対応されており、今後も活躍に期待します。

関西労災職業病2025年7月567号