関西労働者安全センター 新議長 熊本学園大学教授・中地重晴さんインタビュー

中地重晴さん

今年度から浦功弁護士と交代して、議長を引き受けていただいた中地重晴さんを紹介します。関西労働者安全センターとは学生時代から関わりがあるそうで、運営協議会の委員としても30年以上協力いただいています。

-ご出身は、滋賀県と聞きました。琵琶湖を持つ滋賀県で育ったことが、公害・環境問題に取り組むようになられた原点ですか?

滋賀の草津市出身です。
高校生の頃、自宅の目の前の日本コンデンサ工業㈱草津工場がPCB(ポリ塩化ビフェニル)を垂れ流した問題がありました。それで環境問題に興味を持って、大学は京都大学工学部資源工学科に入りました。
教養部に自然科学1(公害)という科目があって、琵琶湖総合開発の問題を批判的に学びました。琵琶湖総合開発で草津の矢橋に人工島を作って、湖南中部流域下水道の下水処理場を設置する計画があって、琵琶湖は大阪へ流れる淀川の源ですが、そこへ下水処理をした水を流すということ、琵琶湖に人工島を作ることが環境破壊ではないかということで反対する運動がありました。下水道の計画を作った京都大学の岩井重久先生が講義することに対して、反対意見で質問攻めにする講義を受けて、大学というのはすごいところだなと思いました。
それで、理学部の人たちが作っている「琵琶湖研究会」に参加しました。1年生の夏休みは、矢橋の人工島の環境調査を手伝いました。その当時、日本では環境アセスメントというのは制度すらなく、滋賀県が委員会を作って、試行的にやっていました。矢橋の人工島による南湖への影響について、滋賀大学教育学部に鈴木紀雄さんという生物学の先生が調査されていました。その先生の所に通って、水質調査の方法とか、プランクトンの種類の同定の方法とかを勉強させてもらいました。それで、琵琶湖環境権訴訟に協力するようになり、環境問題に取り組むようになりました。
大学が休みになると水俣病センター相思社を訪問したり、全国各地の環境問題のある所を見て回るようなことを始めました。

-大学卒業後、環境監視研究所に入ったんですか?

1983年4月に松浦診療所に入職しました。
私は、大学時代、熊取の京大原子炉実験所2号炉計画をつぶす運動を同学会として取り組んだり、反原発学習会を行ったりしていました。また岩佐訴訟の事務局のアルバイトをしていて、関西労働者安全センターがまだ天六の方にあったときに、週に1、2回事務所に通っていました。
安全センターと松浦診療所が車の両輪となって、労働者の健康問題、労災職業病の運動をどう進めていくかという方針の中で、職場の作業環境の測定をするような分析センターを作らなければいかんという考えがあり、当時の関西労働者安全センターの事務局長だった榎本祥文さんに、就職が決まってないなら来いと言われて、入職しました。
松浦診療所では、歯科医の渡辺充春医師が、健診部の中で、作業環境測定士の資格を取って、全港湾の粉じん闘争で粉じん測定したりして、作業環境分析のための機会と部屋は作っていたけれど専門でやる人がいませんでした。それで、健診部に属して、職場の集団健診を手伝いながら、大阪市職の保母の頚腕健診とか、全港湾米運分会の職場改善のための調査や、作業環境の測定を始めました。
とはいえ、あまり依頼がなく、開店休業に近かったのですが、大阪大学の理学部で、ニッソールの農薬中毒の裁判の支援をされていた中南元先生が大学を辞めて、松浦に来てもよいと言われたので、1988年3月に、環境監視研究所を二人で始めました。
中南先生は残留農薬の調査などをやっておられました。研究所が発足した時は、リゾート開発ブームで、全国にゴルフ場が1500あったのを2倍の3000にするみたいな話で、各地にゴルフ場の造成計画があり、ゴルフ場亡国論という本が出たりしましたが、ゴルフ場排水から農薬が流出し、その下流の簡易水道に、農薬が含まれていることを発見しました。日本でも初めての知見で、ゴルフ場反対の安全側の理由に使われました。それで、全国から調査依頼が殺到し、最初の数年間はゴルフ場排水の調査ばっかりしていました。
その後バブル経済がはじけてゴルフ場用地のために、買い占められた土地に、都会からダンプに廃棄物を積んで来て投棄している、大丈夫か、調べてほしいという依頼が研究所に寄せられるようになり、産廃を不法投棄した場所や最終処分場の環境調査をするようになったのが、90年代初めの頃でした。それで香川県の豊島の産業廃棄物の不法投棄事件の問題にも、公害調停の弁護団から94年にお誘いがあって、弁護団に加わり、今に至っています。
1996から98年にかけて、原田正純先生とケニア・タンザニアの金鉱山から流出した水銀によるビクトリア湖の環境汚染の調査に行きました。そのころから原田先生から水銀の分析とかを頼まれるようになりました。
原田先生が熊本大学から熊本学園大学に移って、水俣学を始められたのですが、先生が定年で辞めるのに当たって誰かポストを埋めるようにというので、私に声がかかって2010年4月に熊本学園大学に行きました。

-様々な公害・環境問題に取り組まれてきました

2010年から熊本学園大学に単身赴任し、社会福祉学部で授業しながら、水俣学研究センターで、水俣の町作りについて研究しています。「水銀に関する水俣条約」が2013年にできて、水俣周辺にまだ環境汚染が残っているのではないかとかいうことで調査して、放置された汚染を見つけたりしています。水俣湾のヘドロを浚渫して、埋め立てたエコパークを汚染サイトとして、きちんと管理すべきだと問題提起しています。
小規模金採掘といって水銀を使って手作業で金を採掘している場所を調査しようとミャンマーやインドネシアに行きました。また、タイのマプタプットという東南アジアで一番大きい石油化学コンビナートで、周辺住民と工業団地が共生・共存できるのかという課題でリスクコミュニケーションという形で、企業と住民と行政が意見交換して、課題を解決していくための研究をしたりしています。
その傍ら、大阪にいたときから関わっている豊島の問題とか、能勢の「豊能郡美化センター」のダイオキシン問題についても、ダイオキシン対策協議会の副委員長を続けてきました。能勢の場合は、焼却炉の撤去や、汚染土壌の無害化処理に立ち会いましたが、美化センターの跡地からの放流水がまだ環境基準を下回らないため、後背地に汚染土壌が残っており、安定化対策検討委員会で、モニタリング調査を続けていますが、関わってきた先生方が高齢化し、辞められていくので、私が委員長を務めています。

-「ダイオキシンのお話」という連載を機関誌にしていただきました。

「ダイオキシンのお話」の連載の前に「レントゲンのお話」というのも連載しました。安全センターができた頃くらいに伊方原発反対運動に参加し、京大を出て、レントゲン医師になった方がレントゲンと放射線の健康影響について連載していました。中断していたので、「続レントゲンのお話」というコラムを私がしばらく書いていた時期があります。
アスベストの問題では、阪神大震災後は、被災地の二次被害ということで、解体現場のアスベスト飛散調査を実施しました。その後も、東日本大震災、昨年の能登半島地震後もアスベストセンターや、東京労働安全衛生センターのメンバーと被災地に何度も行って、災害とアスベストの調査をしています。

-現在力を入れて取り組んでいることは何ですか

今力を入れているのは、水俣学研究センター(2023年4月よりセンター長)で、水俣学をどのように作っていくのかということ、水俣の山間部に大規模な風力発電所を作る計画があって、もしかしたら大雨で水害を起こすかもしれないとか、周辺住民への低周波騒音による健康問題が起きるのではないかということで、どう阻止するのかというのが課題になっています。化学屋さんが物理の勉強して、風力発電に反対する理由を考えています。
また、現在、PFASによる環境汚染が社会問題になっていますが、一昨年、有害化学物質から子どもを守るネットワークを作って、生協の人たちと一緒に市民運動をしています。その世話人をしているんですけども、有害化学物質を摂取していることを確かめるために、血液検査、バイオモニタリングを日本でも採用していくべきだという、有害物質の血液検査をして問題があれば対策が取れるような制度を作ろうと提案しています。その延長で、国連の「プラスチック条約」の制定を進める署名活動に関わったりしています。そういった有害化学物質をどう減らすか、健康被害や環境汚染をどう減らすのかという運動にずっと取り組んでいます。

―最後に、運動以外に興味があることはなんですか?

趣味は料理と、自家製ビールを造ることです。なかじビールというラベル貼って、友人に送ったりしています。もちろん飲む方も好きですよ。

-労働安全衛生問題・環境問題に貢献してき中地さんですが、安全センターの新議長としても、活躍を期待しています。(文責:事務局)

関西労災職業病2025年4月564号