新たな事実判明し、17年前の不支給決定を取消し労災認定/水道工の胸膜中皮腫

相談者は80代の女性で、2006年10月に夫を悪性胸膜中皮腫で亡くしている。
被災者である夫は、愛水工業株式会社(大阪市北区)に在籍していたとき、上下水道建設工事に従事し、地下室等での石綿板、石綿セメント管の使用により石綿粉じんにばく露したことにより中皮腫に罹患したのであった。
被災者の年金記録を見ると、この事業所に在籍していたのは1974年から1979年のうちの5年7ヵ月である。しかし、愛水工業の登記簿を見ると、被災者は事業主であった。妻は夫の亡き後に労災請求をしたところ、監督署は石綿ばく露作業期間については所属していた上記期間について「上下水道の監督、工事において石綿セメント管を使用して加工、切断等の作業を行っていたと推認」したものの、登記簿上被災者は愛水工業の事業主であり特別加入もしていないことを確認し、他の事業所においては石綿ばく露作業が認められないとして、2007年8月に不支給処分を下していたことは、「労災申請をしたことはない」という趣旨の相談をきいたのち、時効救済のための特別遺族給付金請求をして、判明した。

実は、相談者は2022年3月、「アスベスト被害救済を打ち切るな!!全国一斉緊急ホットライン」に関する報道を見て、15年ぶりにアスベストと夫の死について考え直す機会を得た。そして本当に労災保険で救済されないのかとの疑問をホットラインにぶつけてこられたので改めて過去の経緯、夫の職歴の詳細をきいて、特別遺族給付金請求をしたのだった。

課題は、労働者としての石綿曝露期間がほんとうにないのか、という点であった。

第一に、愛水工業で労働者として石綿粉じんにばく露した可能性はなかっただろうか。商業登記簿をもう一度確認すると、1974年の入社時はまだ代表取締役ではなかったのではないかという疑問が生じた。商業登記簿からは、1977年に取締役として重任登記されたことと、事業所を閉鎖した1984年12月の時点で代表取締役であったこと以外分からないのである。重任登記は、1977年以前から被災者が取締役に就いていることを示しても、いつから取締役だったのかまで分からないし、ましてや入社当初から役員だったとしても、代表者ではなかったかもしれない。昭和6年生まれの被災者は19歳で東京にある明電舎で働きはじめ、15年ほど働いたのちに短期間で2回転職し、その後愛水工業に就職している。社長として事業所に招聘されることもないとは言えないが、キャリアから考えるといきなり代表取締役として就職するのは不自然ではないだろうか。

次に、被災者が生前就労したことのあるすべての事業所のうち、被災者が不支給処分を受けた後に石綿関連疾患が確認された事業所があることが、処分の見直しの根拠にならないか考えてみた。同一事業所で他の労働者について業務上災害として認められたのだから、被災者の中皮腫も改めて認定されるべきである、と考えたのである。具体的に状況を述べると、被災者は1950年2月1日から1957年10月11日までの間、東京の明電舎大崎工場で働いていた。被災者の業務外の決定が下されたのち、この事業所から、石綿救済法に基づき中皮腫に罹患した元従業員が1名救済されていることがわかった。被災者が、認定された元従業員と同じ所属部署であるなど、同じように石綿にばく露する機会が認められれば労働者として働いていた時期に石綿ばく露作業に従事したことが原因で発症したということができる。17年前に労災請求をした際は、明電舎が労働基準監督署に提出した「石綿の使用状況に関する報告書」には、石綿使用状況について一切「不明」で記載されているし、石綿関連疾患については過去・現在とも「いない」と記載されているので、状況の変化が当時の決定見直しの根拠になると考えてみた。

最後に、他に所属事業場があったのではないかという疑問である。サラリーマンとして働いていた被災者は、明電舎を退職後2年3か月の年金記録上のブランクがある。また、愛水工業に就職する直前も3年間のブランクがあり、これらについて監督署は検討をしていない。もっとも、被災者の妻が被災者と一緒に暮らし始めたのは1980年前後である。被災者が愛水工業で社長であったことは知っているが、それ以前のことはまったく知らず、情報提供もできなかったのではないかと思われる。

労働者期間の検討

最初にかかげた愛水工業での従業員期間の検討は、事業所関係者が一切つかめなかったため、当時の被災者の知り合いをたどることにした。そこで協力を得られたのが南区(現中央区)の飲食店経営者である。被災者をツケで呑ませていたため、集金のために愛水工業まで赴き、請求書や金銭のやりとりをしたと言う。被災者は入口のすぐ近くに机を構えており、奥に代表者の大きな机があり、被災者ではない別の人物が座っていたことを思い出してもらった。代表取締役がほかにいるのであれば、被災者は従業員であったと言える。その期間までは明らかにならなかったが、この飲食店経営者に陳述書を作成してもらい、愛水工業時代も労働者として働いていた時期があることを主張した。

2点目の明電舎における石綿ばく露については、同社の石綿健康被害が公表されたのは2008年、被災者に関する不支給決定の翌年である。救済法に基づく給付が中皮腫に関して行われたということが「石綿ばく露作業による労災認定等事業場一覧表」からわかる。監督署の作成した作業歴情報によると、「昭和39年4月から約1年間、入社後に同工場で現場実習した際に絶縁材として使用されていた石綿含有製品を扱ったおそれのある労働者に関して、労災認定されている」となっているが、本件の被災者が同じように現場実習をしたのか定かではない。明電舎に残されていた資料からは、被災者が資材部運輸課、総務部で働いていたことが報告されており、被災者が工場で働いていたとまで言いきれない点が難である。

上記2点は被災者が労働者として石綿にばく露したということを立証するには十分ではない。年金記録上の空白期間のうち、どこかで石綿ばく露をするような業務に就いていた時期はなかったのか、監督署も改めて調査を行った。

新たに見つかった就労期間

年金記録を改めて調べると、愛水工業退職後、株式会社モヤスターという事業所に就労していることがわかった。被災者には、「消えた年金記録」があったのである。わずか1か月ではあるが、厚生年金に加入していたことが判明したことから、労働者としての石綿ばく露期間をさぐる糸口ができた。妻は被災者がモヤスターなる会社で働いていたことをまったく知らなかったが、おそらく代表取締役として愛水工業の解散に向けて奔走しながら、別の事業所でも就労していたのであろう。モヤスターは、焼却炉を製造、設置を行う事業所のようであり、石綿糸や石綿板などを扱っていたものと推認された。
ただし、先にも述べたようにモヤスターにおける年金加入記録は1か月であり、このままでは中皮腫の認定基準で求められる1年間のばく露期間は認められない。この問題については、監督署が被災者の雇用保険被保険者記録を照会することで解消できた。株式会社モヤスターでの被保険者資格の得喪を確認したところ、2年11か月の被保険者期間が確認できたのである。公的記録から在職期間が確認できたというこである。

結局、職歴の詳細を再調査した結果、当初の不支給決定が変更され、17年ぶりに業務上として支給決定されたのである。

一般的には、労災請求において不支給となった場合、審査請求期限を過ぎると対処する方法がないものと考えがちである。しかし、今回のケースのように、労災認定の根拠となる新たな事実が判明した場合は、自庁取消により改めて労災認定することは有り得る。

今回のケースは、石綿疾患ということから特別遺族給付金請求という方法があったために、その方法による救済を求めた挙げ句の不支給決定から支給決定への変更という結末に至ったのであったが、石綿疾患ではなくても、新たな事実によって労災であることが根拠づけられるケースについては、たとえ審査請求期間を過ぎているからといっても諦めなければならないということはない、ということは憶えておきたい点である。

関西労災職業病2024年11・12月560号