じん肺患者同盟 末吉 茂正さんインタビュー/関西労働者安全センター運営協議会 新任委員紹介

島田昭弘委員急逝のため、急遽委員を担っていただくことになった末吉茂正さんをご紹介します。
末吉茂正さんは、2000年末、玉寄組(大阪市北区)ではつり工として就労しているときに、咳、痰がひどくなり、体を動かすと息切れがきつくなってきたことからじん肺管理区分申請を行いました。
2001年7月に決定されたじん肺管理区分は3イ(PR2)で、合併症として続発性気管支炎が認められ、今日まで療養を継続されています。

―末吉さん、療養も24年目を迎えました。これまでの療養を振り返ってひと言お願いします。

おかげさまで70歳まで生きることができました。労災が認められていなかったら、ここまで長生きできなかった。

―何か普段気を付けていることはありますか。

煙草を止めることだね。それからできるだけ体を動かす。今、住んでいるところは4階建てのアパートだけど、エレベータがないから階段の昇り降りを毎日している。

―今さらなのですが、「はつり」作業というのは、末吉さん風に説明すると、どうなりますか?

家とか建物をつぶす仕事やね。機械使って。

―今でもよく覚えている現場は黒部ダムですね。

20日くらい民宿に泊まりこんで、寝る時間以外は一日中作業をしてたからね。先輩方が40番のブレーカーを逆突きして、「こんなんようやるなぁ」と思ったもんよ。

―じん肺に罹患したのはずいぶん若いときでしたが、病院に行くきっかけは何だったのですか。

同僚だった岡やん(岡山義昭さん 元じん肺患者同盟大阪中央支部事務局長)が「俺、来年からもう仕事辞めるわ」とか言い出して、びっくりしたんよ。これからどうやって食ってくつもりか、って。
よく聞くと、じん肺とか、これまで聞いたことない話をしてきたので、自分も病院で調べてもらったら、CTでじん肺が見つかった。

―その頃は仲村渠盛勇(なかんだかり せいゆう 元じん肺患者同盟大阪中央支部支部長)さんが中心になって患者さんに声をかけていましたね。

あの人にはみんな世話になったね。俺も、みんなに声をかけたよ。そしたら結構大勢にじん肺があったから、また驚いた。じん肺が見つからなかった仲間には文句を言われたけど、助かった人も多かったと思う。
それでも、親方も患者にとって親戚だったりするから、じん肺になってもかえって伝えにくいね。迷惑かけることになるんじゃないかと思う人もまだまだいるよ。

―当時じん肺所見がなくても、その後何年かして発症される方もいましたよね。岡山さんや末吉さんが事務所に連れてきてくれて、労災請求につながる人も多くいました。

もう若い職人で知り合いがいないよ。後輩も、防じんマスクをしているみたいなのでじん肺になる人は少ないのではないかな。昔ほど相談を受けることはないけど、そういえば紹介した那覇の人、どうなってる?
―…はい、労災請求しています。管理区分決定はすでに受けているので、そろそろ業務上認定になるはずです。
みんな頑張ってもらいたいね。私も頑張るけど。

沖縄県の粟国島出身で、彼がセンターにつないでくれたはつり工の多くが、労災認定を受けています。ゼネコンに損害賠償を請求した集団訴訟でも原告として頑張ってくれました。彼のはつり工人生について、もう少し詳しく知りたい方は、本誌2010年2月号のインタビュー記事もご覧ください。(文責 事務局)

関西労災職業病2024年8月557号