金属機械労働組合港合同 石原英次さんインタビュー/関西労働者安全センター運営協議会 新任委員紹介

今年度から運営協議会副議長に就任された石原英次さんを紹介します。関西労働者安全センターの歴史を知る先輩でもあります。


-港合同に入られるまでの経緯を教えてください。

岡山県出身で、大学の時京都に来て、学生時代は学生運動に関わっていました。1981年8月に関西労働者安全センターの土田さん(事務局アルバイト)に紹介され、「医療法人南労会 松浦診療所」に事務職で就職しました。当時は、安全センターと松浦診療所は、労災職業病運動の車の両輪と言われていました。事務員が運動の「心臓」(血液を全身に送り出す)と言われ、当時20数名の職員が医者から鍼灸師から全員何らかの活動に参加している状況で、事務局的に何でもさせられました。

大阪府被災労働者同盟というのがあって、なかなか個性的な人達が多かったことを覚えています。被災労働者のために労働基準監督署にも交渉によく行きました。何とも言えない理屈で労基署側を追い詰める人もいて、大変面白かったです。はり・きゅうの375通達の撤回闘争などに関わりました。Nさん(職業病認定問題に関する全国連絡会議事務局)という人がいて、あの人を尾行しろ、とか色々指示を出され面喰いましたが適当に従い?ました。診療所が鉄筋4階建てを併設して、その4階にNさんも良く泊まって濃厚なポマード臭を残され、その枕カバーの洗濯をした記憶があります。その頃は男性職員の輪番で宿直がありました。港合同の田中機械闘争をはじめ、職場占拠、張り付け泊まり込み闘争に倣い安全センターの事務局員も参加していたと思います。独身男性を中心に毎夜の酒盛りとなりがちで、翌朝の診療所開錠に「遅刻」し、被災者の患者さんに小石を窓に投げられ「起きろー!」とよく怒鳴られました。

理学療法士の学校にも通いました。夜間がなかったので、昼間に学校に3年通い、夕方から夜診の窓口業務で働き、資格を取りました。労災職業病戦線の一翼を担うと意気込んで卒業復帰したものの、医療法人の拡大時期で、組合結成も重なり風雲急を告げる様相を呈していました。

-その後、労働争議が起こって港合同への加入となったんですね。

1984年、南労会は和歌山県に紀和病院を開設しました。職員数が急増し労働組合員も、診療所、病院、両方合わせて100人以上加盟しました。元々診療所自体が総評の下部組織の港地協に加盟し、運営委員会役員も全金、全港湾の執行部が名を連ねる構成でした。そして1991年8月に団体交渉不調のまま合理化強行で争議が始まります。その後、経営側の強硬姿勢を見極め港合同に加盟して南労会支部となりました。解雇、賃金カット、不利益扱い、刑事弾圧に抗してストライキ、デモ、昼休み抗議集会、裁判闘争など果敢に闘いました。私自身は、1999年に8人目の解雇者となり港合同の古参組合員から“一人前になったな”と激励を受けました。

争議は22年を経て2012年に、労働者のための医療機関という南労会の設立趣旨を踏まえる、という精神条項を盛り込んで和解終結となりました。

-解雇後、「NPOみなと」を開設することになったんですね。

はい、アルバイトをしたりして組合員がバラバラになってしまうことを避け、2001年に田中機械支部の中に、「NPOみなと合同ケアセンター」を設立し、解雇者が中心になって介護事業を始めたわけです。大和田幸治委員長(港合同田中機械支部・故人)がデイサービスの建物を作ろうと言ってくれて、2005年にはデイサービス(通所介護)施設が組合事務所前にできました。

私は、ケアマネージャー(介護支援専門員)の管理者とケアセンターの副代表をしています。現在ヘルパー4人、デイサービスに6人+αで切り盛りしています。

介護保険は、当初の公的保障や介護の社会化という意味合いからは大きくかけ離れ、逆行さえしていると思います。介護・福祉の労働組合や事業所と一緒に、年に数回、大阪市、厚生労働省とも交渉を持ち、基本報酬の引き上げや改悪に反対するなど様々な要求を行いますが、報告を聞くと、介護とは無縁(!?)の若いキャリア官僚の対応に嘆息や苛立ちが募る思いです。外国人労働者やロボット頼みになるとか言われていますが、報酬が上がらないのは、介護に対する今の社会的評価が表れている側面もあるのだと思います。他のエッセンシャルワーカーと同様ではないでしょうか!?

-安全衛生問題での課題は?

腰痛については、何人かは腰痛ベルトを使用するなど各自対策をしています。いまのところ、休業するまでの事案はありませんが、学習や対策を継続していこうと思います。カスタマーハラスメントについては、まだ大きな問題となったことはありませんが、少々無理を言ったり、自己主張の強い?利用者さんなどと若干のトラブルになることは良くあります。その場での適切な対応や担当ケアマネジャーを通じた対応など心掛けています。

―最後に、休みの日の趣味はなんですか?

低山をGPS不使用で地図を見ながら歩くのが趣味です。ルートファインディングで勘が当たった時の喜びはえも言われません。六甲や北摂山系によく行きます。


40年以上にわたって、労災職業病運動、労働運動を担ってこられた石原さんですが、まだまだ安全センターと労災職業病運動に貢献いただけることでしょう。(文責:事務局)

関西労災職業病2024年5月554号