石綿救済法による救済はどこまで及ぶか:両親が自営業で石綿ばく露、医証なく不認定

現場は極東石綿(大阪市西区立売堀)の倉庫

令和4年3月に実施した、石綿救済法の請求期限を直前に控えた緊急ホットラインには、40年以上前にお亡くなりになった方に関する相談が何件か寄せられた。

そのうちの一件、大阪の髙橋さんからは、昭和51年に亡くなった母と、昭和62年に亡くなった父に関して、その死が石綿に起因するものではないかという訴えがあった。

髙橋さん自身は昭和18年生まれの79歳、2年前に亡くなった昭和13年生まれの長姉、昭和16年生まれの次姉、唯一戦後生まれである昭和22年に生まれた弟との四人兄弟である。幼少期に空襲で焼け出されて、北区にあった池内貿易の土蔵を借りて一家で暮らしていたという。池内貿易はちょうど現在の中之島美術館の北にあり、借りていた土蔵は、1階に土間があるほか6畳一間の簡素な造りであった。

髙橋さんの父はもともと髙橋運送店と屋号を掲げ、品物をリアカーで運ぶという仕事を行っていた。梱包というのは、預かった商品を目と鼻の先にある梅田貨物駅の貨物に載せる前に自宅で梱包を行い、発車時間まで駅周辺に積んでおくところまでが仕事だが、戦後の治安も良くない時期であり、置いておいた商品が持って行かれないよう、髙橋家の子どもたちが番をしていた。梱包される前の商品は、池内貿易の正門から土蔵までの通路に並べられていた。


石綿とのかかわりがあったのは、運送事業の方で、当時立売堀にあった極東石綿という建材メーカーにリアカーを持ち込み、麻袋に入った石綿、畳状やカーペット状の石綿建材を極東石綿の倉庫で積み込んで、建設現場に運んで降ろすという作業が週に何度もあった。髙橋さんをはじめ、一家総出で一緒に作業をし、みんなで埃まみれになって帰宅した。その埃だらけの服を洗濯してくれたのは髙橋さんの母であった。

当時の石綿使用状況について記載された書籍を見ると、「1949年にGHQの許可を受けて戦後初の石綿が横浜港に入荷し、1950年以降、輸入量は増加の一途をたどり、日本の戦後復興と産業発展を支えた」(「職業性石綿ばく露と石綿関連疾患」)と書かれている。髙橋運送店もこの地で家業を続け、昭和44年には福島区に居を移してさらに事業を発展させた。

両親の死

髙橋さんの母が亡くなったのは昭和51年である。当時69歳であった母の死亡診断書には、直接死因欄に「右血性胸膜炎」と記載されている。先にも挙げた「職業性石綿ばく露と石綿関連疾患」によると、わが国で初めて報告された胸膜中皮腫の症例は、昭和49年の「石綿肺に合併した胸膜中皮腫の1例」(姜健栄 日本胸部疾患学会雑誌)ということなので、それからまだ2年しか経っていない。

父の死はそれから約10年後の昭和60年、同じく胸膜炎に罹患しており、直接死因は胸膜炎を原因とした呼吸不全である。もっとも、死亡診断書によると、胸膜炎の原因は悪性リンパ腫であり、髙橋さん自身も父の主治医からがん性胸膜炎と説明を受けていることから、悪性リンパ腫が胸膜に転移した可能性もある。

とはいえ、ふたりとも胸膜炎と診断されているが、これは中皮腫であったのではないだろうか、というのが髙橋さんの疑問である。

一家で石綿を長く扱ってきたことは間違いない。また、とりわけ母については昭和51年当時に胸膜中皮腫と的確に判断できるような医療上の環境ではなかったと考えている。髙橋さんが特別遺族弔慰金請求後、環境再生保全機構へ何度も送った手紙には、毎回のように次のように書かれていた。「『中皮腫』という病名は、普通の医者の中で日常的に使われていたのでしょうか?当時は一般的には肺のレントゲン撮影をして白く映った場合は結核と診断されていたのではないでしょうか?私でさえ、肺結核と診断され、10か月も会社を休職したのですから(今から考えるとあれも石綿肺の初期だったのでは?と思っています)。」

特別遺族弔慰金の請求

相談を受けたときはすでに救済給付の請求期限が迫っており、すぐに特別遺族弔慰金の請求を行った。髙橋さんも、弔慰金の支給よりも、両親の死が石綿に起因するものだという確証がほしかった。

請求は書類一枚を提出するに過ぎないが、その後に環境再生保全機構から求められる資料は、これだけ時間が経っていると相当に困難なものが多くなる。労災請求であれば、監督署が調査し、探してくる資料であっても、救済給付の請求ではすべて自ら入手しなくてはならないため、遺族、とりわけ高齢の遺族には重い負担になるだろう。

なかでも髙橋さんが途方に暮れたのは、両親の医療上の資料の提出を求められたときである。両親がどの病院に通院していたのか分かっていても、すでにその病院がなくなっていたり、数十年も経って記録が残っていないということは十分ありえる。髙橋さんの場合も、両親の死亡診断書のみが唯一病態を伝える資料であった。

このことを環境再生保全機構に伝えると、途端に請求の取り下げを勧められるようになった。病理資料がないと中皮腫であると到底認められることはないから、取下げよというのである。その勧奨を突っぱね、他に何かないかと探してみたところ、偶然にも自宅に母のレントゲン写真が1枚だけ見つかった。レントゲンを撮った病院から当時の主治医宛ての手紙が同封されていたことから、思うに専門医を紹介してもらったようである。なお、同封されていた主治医宛ての手紙には、「当方にても胸部X線撮影しましたが、どうも悪性(腫瘍?)の肋膜炎のように認められます」との指摘がされていた。

また、当時の石綿ばく露状況を伝えるために、亡長姉、次姉、髙橋さん、弟の4名の胸部CTを提出した。

4名とも、幼少期に家業を手伝い、父が持ち込む石綿材や作業服からの間接ばく露のほかには、職業上も環境上も石綿粉じんのばく露歴は認められなかった。にもかかわらず、それぞれのCTから胸膜プラークが確認できるので、直接両親のばく露を証明するものでなくても、当時の状況を説明するためには十分説得力のある資料になると考えた。

不認定の決定

父について医学資料は何も提出できず、母については放射線画像のみ提出できた状態であったが、審査分科会が開催されたのち、両名についても資料不十分という判断になり、再び病理資料の提出を求められた。

しかし、今回の追加資料請求については、「当機構から医療機関に対し資料御請求をいたします。請求者ご本人が医療機関に資料を請求する必要はございません」という一文が付いており、髙橋さんは「それなら最初から全部そうしてくれていれば」と憤懣やるかたない思いだった。遺族が一生懸命探さなくても、最初から環境再生保全機構から診療情報等の提供を医療機関に求めればよかったのである。

また、母のレントゲンは自宅にあったもので、これまで通院した医療機関にはいずれも一切資料がないことを確認している。改めて機構から尋ねて、そこから新たな資料が発掘されるものだろうか。

1年3か月の期間を経て、機構の決定は2名とも不認定であった。父については「判定に必要な資料が提出されておらず、中皮腫とは判定できない」、母については「悪性腫瘍を示す所見は認められない。胸水は認められる。中皮腫を積極的に示唆する所見は認められない」と判定票に記載されていた。

髙橋さんは「医学的な資料がないから判断できない、と言うのであれば、最初から請求要件に中皮腫であったという医学的資料を絶対条件として掲げておくべきではないか」という。診療ガイドラインが確立された今日、中皮腫と確定診断をするうえで必要な病理検査が鑑別診断のためにも不可欠であることは明らかであるし、闘病中の患者が少しでも安心して療養できる環境を構築するために限られた資源を集中させることも理解できなくもない。

しかし、日本の石綿被害の全体像を把握するうえで、髙橋さんのような被災者こそ真摯に検討されなくてはならないと思う。髙橋さんも、ご自身の考えがどれくらい判断に影響しているのか知りたいと考えている。

関西労災職業病2023年7月545号