台風対応後死亡の職員の遺族が、田辺市に申し入れ
公災認定されたとしても・・・
田辺市の危機管理局長だった中野典昭さんは2018年8月、台風20号の災害対応にあたった後、脳出血で倒れ、その後死亡した。遺族は公務災害を請求し、2020年6月に認定された(詳細は本誌2021年9月号災害に泊まり込みで対応した市役所職員、脳出血で死亡。公務災害に認定-地公災基金和歌山県支部)。災害対応の指揮を執り、休憩もほとんど取れずに対応したことが強度の精神的負荷となり、基礎疾患の高血圧を自然経過を早めて著しく増悪させたと判断された。
公務災害と認められたものの、遺族には納得がいかないことがあった。
業務が原因で死亡したのに、市役所からは何の説明もなく、中野さんの死はまるでなかったことのように忘れられているということだ。そのことについて、遺族が漠然と市に問い合わせてもきちんとした対応は期待できない。
4項目を申し入れ
一計を案じて、田辺市長宛に文書で説明を求める申し入れを行った。
2022年6月8日、中野さんの妻と次男、支援者として当センターが同席し、田辺市役所で申入書を手渡した。申し入れと同時に、市役所記者室で会見も行った。会見には長女も駆けつけて出席した。田辺市のテレビや新聞は、大きく報道した。
申入書の内容は以下の4点
- 台風20号への対応で、「災害対策準備室」を設置され、またその際に副市長が来られなかったというのは、事実でしょうか。
- 副市長が来られなかったとしたら、どういう理由であったのでしょうか。
- 副市長が来られなかったとして、中野が「災害対策準備室」のトップの代わりとして、最終判断を行ったことについて、市の対応としてどのようにお考えでしょうか。
- 当日の災害対応について検証し、1人に過重な責任がかかることのないよう今後の体制見直しをご検討ください。
台風が近づいた2018年8月23日、Aさんは朝から対応に当たっていたが、夜9時58分には全市に避難勧告を出すと同時に、防災体制を「災害対策準備室」という副市長をトップとした300人の体制に格上げした。ところが、副市長が登庁しなかったことが、生前の中野さんの言葉から分かっている。遺族が市役所の職員に尋ねて確認もしている。これまでにない大規模な防災体制となったときに、それをまとめるべき責任者が現場に来ていなかったことが、危機管理局長であった中野さんの負担を増加させたことは間違いない。これら質問への回答で、遺族は当時起こったことを検証し、何らかの誠意を示すことを市に希望していた。
申し入れ後、田辺市側も記者会見を行ったが、「職員が亡くなったのは残念で遺族の心中は察して余りある」としながら、「中野さんに判断が集中するような状況ではなかった」とも話した。
文書回答、市と面談
6月25日、土曜日の休庁日であったが、田辺市役所の会議室で遺族は田辺市と面談した。対応したのは田辺市副市長、総務部長、危機管理局長だったが2018年当時の副市長は退任、他の職員も変更されていて後任の職員だった。
回答は文書で遺族に手渡された。
中野さんの妻と長男夫婦と長女、次男がそろって出席した。
やり取りの前に、遺族側からこれまでの遺族への態度や説明がなかったこと、公務災害請求を阻むような態度の職員がいたりと、田辺市の対応に問題があったのではないかときいたところ、それに関しては遺族に対してお詫びすると職員3人がそろって頭を下げた。
回答は、1については、副市長は自宅待機し市庁舎へ来ていなかったと認めた。文書にも記載されたし、口頭で来なかったのは不適切だったとも話した。
2の理由については、副市長とAさんが電話協議で自宅待機とするとしたと回答した。これは経緯であって理由ではない。遺族からの指摘に、市側は元副市長に尋ねるなどの調査はしておらず、そのような権限もないと答えた。調査して事実を明らかにする気がないということだ。遺族と激しいやり取りをすることになり、最終的には元副市長に聞きに行って再回答をもらうことになった。
3については、長々と時系列で災害対応の経緯を延べ、それは危機管理局長の職責として判断を行ったものだとした。要するに、災害対応とそれに伴う判断を行うことが危機管理局長の仕事ということを説明していた。これも質問への回答になっていなかった。あくまでも過重な負荷がかかったとは認めないということだ。
4では、「災害対策準備室」では、責任者を副市長1人から2人体制へ変更したり、危機管理局長の精神的肉体的負担を軽減するために「準備室特別調整班」などを設けたという。健康診断結果に基づき医療機関の受診を強く推奨するとした。しかし、実際の調査をして事実関係を明らかにしていないのに、小手先の対策を立てても改善されるとは思えない。
結局、2の再回答を含め、日を改めて再度回答をもらうことになった。
「副市長は登庁すべきであった」との見解
再回答の項目、および追加の質問事項は、
質問2 副市長が来られなかったとしたら、どうゆう理由であったのでしょうか
質問3 副市長が来られなかったとして、中野が「災害対策準備室」のトップの代わりとして、最終判断を行ったことについて、市の対応としてどのようにお考えでしょうか
に追加で
1 池田副市長が登庁しなかったことについて、市長としての見解
2 公務災害申請書類の市の説明と遺族が集めた証言内容に違いがある点についての説明
①中野さんの上司、総務部長は副市長について「何かあれば連絡することとし、引き続き自宅待機することにした」などと記載しているが遺族が聞き取りをした時は、「市長が来ていたかどうかはっきりした記憶はない」と述べており、事実はどうだたのか
②遺族の聞き取りでは中野さんが、「副市長は寝ているし、連絡したら怒られる」と言っていたこと、副市長は「もう寝るんや」と言ったらしいなど、「いつでも連絡が出来、必要な判断を下すことが可能な状態にあった」とは考えられない証言があること
3 「災害対策準備室」体制で・これまでにない規模の災害であったこと、・担当副市長の不在、もう一人の副市長と教育長も呼ぶことができなかったこと、・休憩する余裕もなく長時間にわたって対応が必要であったことなどから、危機管理局長という役職であるということ以上に、中野に相当な責任と心理的負荷がかかったと考えるが、どうか
4 公務災害申請に協力することが、遺族への配慮と考えサポートを行ったとの主旨の発言があったが、どのような配慮やサポートをしたのか。
8月6日土曜日、再度の面談を田辺市役所で行った。
質問2について、現副市長は元副市長に聞き取りを行い、その回答を読み上げた。
夜間に行える対応は限られているため自宅待機を行うこととしたという内容だった。要するに、危機管理局長と電話で協議して自宅待機とした、夜間に行える対応は限られているためで、自宅でいつでも電話連絡できる状態だったということだ。
質問3については、「災害対策準備室」設置後、何か所かの避難指示の報告を受けた以外に特段の判断を行う必要はなかった、危機管理局長の本来業務の範疇で、職責として様々な判断を行う立場だったとし、前回の回答と主旨は変わらなかった。
追加1 池田副市長が登庁しなかったことについて、市長としての見解については、「災害対策準備室を設置している間、本来、登庁すべきであったと考えています。」と答えた。
追加2から4の質問については、これまでと同じく事実を確認することなく、総務部長は災害時は危機管理局長の部下ですべて把握する立場ではなかったとか、中野さんに特に困難な判断の必要はなく職責の範囲だった、副市長とはいつでも連絡が取れた、といった言葉が繰り返された。
結局、遺族が納得する回答は得られず、2回目の面談は終了した。
2回のやりとりの成果は以下の2点である。
- 市として、「災害対策準備室」が設置された時、副市長が登庁しなかったのは不適切で、来るべきであったということを認めた
- 遺族に言われるまで説明を行わなかったなど、配慮がなかったことについての謝罪
それ以外については、副市長がなぜ来なかったのか本当の理由は不明なままであるし、中野さんには職責以上の負荷はかからなかったという見解だった。事実確認ができないので、今後の改善についても話しができなかった。
遺族は到底納得しておらず、今後、どのように真相を究明するのか新たな手段を考える必要がある。
本件関連報道
田辺・18年台風 防災指揮後局長休止
遺族、市に説明求める2018年の台風20号で田辺市役所の防災体制を指揮した危機管理局長が直後に急逝したことについて、遺族が8日、真砂充敏市長あてに申入書をだした。当時の状況と対応を調べて説明することと再発防止策を考えることを求めている。
公務災害「何があったか 知りたい」
亡くなった危機管理局艮は中野典昭さん。57歳だった。遺族が名前を公表した。20年に地方公務員災害補償基金が「公務上の災害」と認定している。
朝日新聞和歌山県版 2022年6月9日
認定資料などによると、中野さんは18年8月23日朝から台風20号の対応にあたった。この日の夜、田辺市の全域に避難勧告を出すのかどうかで苦悩し最終的に発令。市役所に泊まりこんで翌日も対応にあたった。帰宅は24日午後6時ごろで、自宅で倒れて26日朝に脳出血のひとつ橋出血で亡くなつた。
中野さんの死去から間もなく4年、公務災害の認定から2年となる現在も、遺族によると、田辺市は遺族に説明を一切していないため、申入書を出すことにした。また遺族は、副市長が室長に就く災害対策準備室を設けて防災体制を格上げしたにもかかわらず副市長が来なかったことが中野さんに過重な負担をかけることになったと訴えている。
副市長が来るべきだったのに来なかったことは田辺市も取材に認めている。中野さんの妻(62)と次男(24)が、狩谷賢一・総務課長に手わたした申入書は「遺族として、死亡前の業務で何があったのか、きちんと知りたい」と指摘。①副市長が来なかったのは事実か②事実ならば理由はなにか③その結果として申野さんに重い責任がのしかかったことをどう考えているのか④当日の対応を検証して今後の体制を見なおすことを検討すること-といった4点について回答・説明するよう求めている。
その後の記者会見には長女(27)も出席した。妻は「このまま何の説明も無いままでは死んだことさえ無かったことにされてしまう」、長女は「公務災害の認定後も遺族に何の一言も無いのは市長としてどうなのか。死んだらもう関係ないということか」、次男は「父の死から4年が経とうとしている。私たちの時間は止まったままだ。憤るばかりで父の死を悼むこともできない」と訴えた。
続けて田辺市も会見した。西貴弘・総務部長は「先輩が亡くなったことは残念で、遺族の心中を察してあまりある」と話した。遺族への説明の場を近く設けることも明言した。一方で「説明してほしいという要望がなかった」とも繰りかえした。業務に関係して死んだのだから要望が無くても自ら説明に来るべきだったという遺族の指摘については「遺族にお話をさせていただく」と述べるにとどめた。(下地毅)
田辺市 公務災害で遺族に再回答「副市長は登庁すべきだった」
田辺市役所で台風の防災対応のあと亡くなり、公務災害に認定された市の職員の遺族が当時の状況の説明を改めて求めていたことについて、市は6日、遺族に再回答しました。
NHK和歌山NEWSWeb 2022年8月8日
災害対策準備室トップの当時の副市長が登庁しなかったことについて、真砂充敏 市長は「本来、登庁すべきであった」との見解を示しました。
4年前、田辺市役所で台風の防災対応にあたった当時、危機管理局長だった中野典昭さんは、帰宅後、脳出血で倒れて死亡し、おととし公務災害に認定されました。
中野さんの遺族はことし6月、当時の状況に関する説明を書面で受け取りましたが、「回答が不十分」だとして市に改めて説明を求めていました。
これについて田辺市は6日、書面で再回答しました。
それによりますと、中野さんに過重なストレスがかかることにつながったとされる災害対策準備室トップの当時の副市長が登庁しなかったことについて、真砂市長は「災害対策準備室を設置している間、本来、登庁すべきであった」との見解を示しました。
一方で、登庁しなかった理由を当時の副市長に聞き取ったところ、「夜間に行える対応は限られるため自宅待機した」と答えたほか、不在の副市長の代わりに中野さんが対応にあたったことについては「職責の範囲内」だと説明しています。
中野さんの妻は「副市長が登庁すべきだったと市長が見解を出したのは評価するが、申し入れをしても納得する返事はもらえないのだと思った」と話していました。
関西労災職業病2022年8月535号
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