大手造船会社・配管工の アスベスト(石綿)肺がん事件のこと。労災認定と孝行息子たち/大阪
今から数年前、医療関係で事務をしていた知人から電話があり、「林君こんどの土曜日何か用事ある?」と聞かれ、「特に用事はない」と返事をしたら、「土曜日の午後1時頃に病院に来てくれないか」とのことであった。以前に健康診断を会社単位で斡旋したこともあって、今回もまたその相談なのかと思って応じた。
土曜日の午後にJR尼崎駅で下車し、徒歩約5分ほどで病院に到着し事務所に入った。事務所には知人と女性の2人が待っていた。知人に「この女性の相談を聞いてあげてくれないか」と言われ、とりあえず相談を聞くことにした。
女性の夫は約1か月前に肺がんで亡くなった、夫は高校を卒業してから大阪府堺市にある大手造船会社に勤務し、溶接工として船の新造船や修理を行っていたというの説明であった。
当時はすでにクボタショクが大きく報道され、石綿健康被害が社会的にも大きな問題となっており、女性もいろいろと石綿被害について知識を仕入れていた。女性は亡き夫の労災申請が可能ならば手伝ってほしいとのことであった。
しかし、職歴や業務内容を調べるにしても全く伝手はなかったのだが、女性は亡くなった夫から生前に仕事の内容を詳しく聞いていた。
また、造船関係の知人に話を聞くと、船底には石綿が断熱材として多く使用されており、エンジンやボイラー回りは特に多く使用されているとのことで、石綿ばく露の影響はあると報告を受けた。女性と数回お会いして、いろいろな説明や報告を聞いていく段階で、少し誤解があったのか、ある日、社労士を名乗る男性から電話が入り、面談を求められた。後日、その社労士の男性と会うと、どうも私のことを事件屋か何かと勘違いされたようで、誤解のないように説明し、女性につたえることを約束してくれた。
一方で、当時入院していた県立塚口病院の呼吸器内科部長に肺がんと石綿の関係を聞くために面会を求めた。
この呼吸器内科部長はクボタの石綿患者を多く診察しており、面会当日も親切丁寧に説明を行ってくれたが、石綿との因果関係を見つけるには至らなかった。
困り果てた私は、関西労働者安全センターに相談し、東京の港町診療所へレントゲンとCTを郵送し、読影を依頼した。約2週間後、レントゲン・CTと診断結果の書面を受け取った。
結果は県立塚口病院の診断と同じであった。またまた、困り果て再度安全センターに相談した。もうここまで来たら申請してみるしかないとの意見で一致し、亡くなるまでの被災者の休業補償・療養補償、葬祭費、遺族年金の書類を作成し、奥さんを通じて造船会社へ労災申請の協力を依頼することとなった。
会社は異論なく申請に協力した。しかし、その裏には、造船会社ゆえに多くの石綿問題が過去から生じていたのだと感じた。6月中旬に堺労働基準監督署へ労災申請を行った。
労災申請の翌週から毎週2回ほど労基署へ進捗状況を伺いに行っていた。(監督署は多分イヤガラセと思っていたと思う) 当時の担当は女性で、2回に1回は不在で、多分に居留守をつかわれていたと思っている。そうこうして、8月のお盆休みが明けた直後、相談者の女性から電話が入り、監督署から書面が届いたとの報告があり、その中身は遺族年金支給決定通知書であった。ほんとは、不支給決定が下されるものと思っていたところ朗報が舞い込んだ。
翌日に監督署へ出向き、決定理由の説明を求めたが、担当者不在だったので労災課長に説明を求めたら「胸膜プラークの疑い有り」との決定理由と聞かされた。同時期に造船会社と労働組合が労災の上積補償が合意に達したとの情報を得て、会社へ労災認定報告と上積補償支払いの約束をさせ、問題の解決を図った。
最後に、嬉しい報告があった。相談者の女性には男の子が2人いて、私に長男(当時、高校2年生)が、お父さんのような人を救うため、医者になることを明言し、数年後、京都大学医学部に入学したことを年賀状で知った。その後、次男も京都大学医学部に入学したことを知るに至った。今は2人とも優秀な医師になって、多くの労働者を救済していると確信している。(事務局:林繁行)
関西労災職業病2020年6月511号