被災者は語る 第3回・阪井健治さん~関西労働者安全センター50周年企画インタビュー
関西労働者安全センター設立以来の50 年は労災職業病被災者と共に歩んだ50 年といえます。「被災」という予期せぬ「現実」に向き合う人たちのお話を改めて傾聴する本企画の第3回は、阪井健治さん(88歳)です。
大阪生まれでずっと大阪
-今年の9月6日で88歳ですね、昭和10年生れ
本籍は、大阪市浪速区恵美須町で、生まれたのは母の実家で東大阪市の瓢箪山です。
父は、大阪市の中央市場で魚の仲買をしていて、花園町の公設市場で店を持ってました。
小さいときは市場でものを買ってもお金はあとで親が払う、いうことで、自宅は、公設市場から300メートル程度でしたから、しょっちゅう市場に行って、卵焼きをお店で買うてました。
5人兄弟の2番目です。いまは12歳違いの末の弟だけで、和歌山に住んでいて仲良くしています。先日も天橋立の方に旅行に行きました。
-地元の学校に行かれました
今宮小学校、今宮中学校に行き、高校は親が病気になって経済的に行けなくなり途中でやめ、働きに出ました。中学の頃からアルバイトしてお金を貯めてました。
ですが、そのお金を兄が勝手におかしなことに使い、そのために心身をおかしくしてしまいました。その兄のことでは家も私もたいへんな苦労をしました。亡くなるまで会えばケンカ、今は兄の子供たちとも音信不通、どないしてるのかわかりません。
電気工事職人一筋
-年金記録によると昭和34年、24歳頃からずっと電気工事をされました
高校辞めた後、数年は“遊んでた”。
貯めていたお金は兄にとられる、兄のことで家がもめてる、それだったらということで、全部じゃないけど極道みたいなもん、遊び人とつきおうてました。
その間に電気工事をするようになってたけど、本腰を入れて電気工事をするようになったのは、28歳の時に今は亡き妻(昭和16年生)と結婚してからです。
嫁さんをもらって、そうした付き合いを全部やめて、住むところも東大阪の小阪に出ました。
それからはお金もいるから、仕事は、たとえ1円でもいいところ、いいところへ行きました。
-給料は全部奥さんに
もう、全部。もろたら、封筒ごと渡してました。
妻も苦労をしていて、親ではなくおじさんに育てられた人だったので、結婚についてもおじさんの許しをもらいに行きました。
妻は千日前のコロンビアという喫茶店でウェイトレスをしていて、そこで知り合いました。
-ずっと電気工事、電気工事というのはそんなにおもしろい仕事ですか
おもしろい、いうことではないですが、ほかに変わるという気はなかった。
嫁さんをもろうてから、仕事が好きになったいうか…。おじさんには「嫁さんに腹一杯飯食わしますから、ください」というて頼んだんです。言うた以上は、金持って帰らんと、で、一生懸命働きました。休みもなし。盆、正月は給料がええから仕事をしてました。正月でれば、一日に3日分もらえますから。休むのは「えべっさん」のとき。
そのころは堺の八幡製鉄の仕事がよかったんです。高炉と変電所は盆と正月しか休みませんから。
-一番もらったときで一日いくらでしたか
25000円。一日50000円出すから東京に来てくれ、いうことがあったけど、これは行かんかった。行って、50000円の金もろうてどれだけ苦労せんといかんか。行ったやつはすぐ帰された、それだけの腕がなかった。できる人間は、もともとちゃんともろてるからそういうところは行かない。
仕事があるときは土日もなかった。昭和60年でも日曜日仕事をしていた。平成になってからはさすがに日曜日は休みになったけど、それでもすることはあった。
いちいち思い出せないくらいいろいろな現場に行った。鶴町の中山製鋼、灘浜の神戸製鋼…。
-阪井さんは実に堅実に仕事をされましたね
そうです。職人の中には経済的にルーズな人もいましたから、職人の奥さんに直接、給料を配っていた親方もおったから。「いつ給料くれはりまんねん」いう文句が出たそうです。
職人を連れて入ったことはなかった。そういうタイプじゃなかった。ただ、まじめに仕事をしたということです。
プロには絶対勝てないので博打もしませんでした。とにかく結婚して全部変わりました。
子どもができたのが30歳くらいのとき。続けて2人息子ができた。家内は専業主婦ですが、子どもが高校に行きだした頃にパートに出ました。私自身の子どもの時の経験から、子どもが小さいときは絶対に家に居てほしいと頼みました。自分は仕事で朝早く出て夜帰る、残業して遅く帰る、だから嫁さんは小さい子どもたちをひとりでみて、たいへんだったと思います。
-働いているときに仕事以外に楽しみは
子供を連れて、よく遊びに行きました。温泉旅行にも行きました。
子供が大きくなってからの趣味は、釣りです。最初は池で釣っていましたが、その後は釣り堀に行きました。釣り堀では仲間グループで小さいお金の「賭け釣り」をしてました。そういう、じゃこ(雑魚)釣りが楽しみでした。
仕事をやめて妻を看る
-家族のためにずっと働いたということですね
嫁さんがえらかったということです。生い立ちもあってうちの家内も辛抱強かったと思います。2人の息子はずっとまじめに働いています。関東で所帯をもっています。このたび、息子の近くの千葉の我孫子市の施設に移ることにしました。次男の家から車で30分くらいの所です。次男からは、労災認定されるまでの苦しい時期に月々仕送りをしてもらっていました。
子どもが手を離れてからは、家内が旅行が好きでしたので、家内がまだ元気なうちは、旅行のためにパートもやめて全国をまわりました。
嫁さんが病気(ALS)になってからは、車椅子を押してまた全国をまわりました。
-最後の仕事が東成のスポーツセンターでした
そのころもう嫁さんが病気になっていましたので、仕事をやめました。近所の人も知っています。身の回りのことをして面倒をみました。
瓢箪山の駅の踏切でこけて、近所の人に助けてもらってようやく家に帰ってきたということがあったりして、もう仕事をやめて面倒をみることにしました。平成18年に亡くなるまでずっと看病しました。
-看病はつらかったけど、亡くなられて…
その方がつらかった。
家の中にずっといたら寂しなって、テレビでみて、西国33箇所、四国88箇所参りのバスを申し込みました。四国はバスに一緒に乗るメンバーがいつもいっしょで、そのときにWさん(現在よきパートナー)とも知り合いました。
びまん性胸膜肥厚で労災認定
-いつごろから自分の身体がおかしいと?
仕事しているときに、40代の健康診断で「肺浸潤かなんかしたことがありますか」と言われた。病院でも「ちょっとおかしいで」と言われたことがありましたが問題なく仕事はできてた。
自分一人になったということもあり東大阪の自宅を売って近所のアパートに移り、結局、Wさんのいる大阪市内の大正区の市営住宅が一発で当たり、そこはエレベータもなかったので公団住宅に引っ越した。
その近くの大正民主診療所で肺の異常を言われて、(西淀川区の)のざと診療所に紹介され、そこから、東大阪のみずしま内科クリニックの水嶋潔先生にかかるようになりました。労災申請し一度はダメでしたが、82歳の時にびまん性胸膜肥厚で認定されました。
「アスベスト」
一回も聞いたことない
-仕事をしているときアスベストのことは
そんな話は一回もあらへん。保温の職人がなんかの講習から帰ってきて「岩(いわ)綿と石(いし)綿は違うねん」というから「どこが違うねん?」と聞いたら、わからん、という話をした憶えはありますけど。
マスクとかも全然。吹付けしてあるところは幕があってもその中を通っていくとか、吹付けを軍手で落とすとかしてました。
-天井裏とかはホコリがしてたでしょ
そんな、マスクとかそんなん、頭にないもん。監督も何にも言わない。仕事をやめるまで一回も言われたことも、聞いたこともない。アスベストという言葉を知ったのは、世間が騒いでからです。
(現場に)役所の人間が来ているのは再々見かけたけど、現場で「マスクつけろ」とか、ぜったい言わない。やかましい言うのは、たばこを決められたところで吸えということ。
-もし言われたら、マスクしました?
なぜマスクをしなければいけないかを言われて、義務付けられたらマスクをしたと思う。森下仁丹の現場みたいなところは衣服も着替え、マスク装着も厳しく言われましたが、普通の現場では何も言われへんでしたから。
-仕事をして、今このような病気になったということをどう思いますか
不便は不便だけど、生活面では労災があるのでゆったりできる、ありがたい。(病気に)なったもんはしかたないとあきらめている。しかし、現実に、お金で返ってきているだけでもありがたい、と思うてる。今は、ね。
外に出ること
今、デイサービスに行ってますけど、みなフラフラや。
よく「あとに残されたものはしんどいですなあ」言われますけど、家におったらあかん、おもてに出ないといかん、言います。
苦労は多かったですが、今は、自分の好きなことをして、好きなものを食べてます。
死んだ嫁さんが良すぎたから…。その供養に出たんで、それで今の自分があるのかな、とも思います。
悪いことがあっても、くよくよはしないということです。同じことやもん。そして、(外にできるだけ出て)足だけはしっかりしとかんといかん、と。
【事務局記】
阪井健治さんは関西労働者安全センターと中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会関西支部の会員で会合には、ほとんど今のパートナーのWさんと一緒に参加されてきた。千葉に転居となったが、しばらくは月一回、お世話になってきた水嶋先生のところに通うということだ。大阪への愛着は深い。11/18の50周年レセプションにも参加されたので、今後の関東での療養について東京の平野敏夫先生(ひらの亀戸ひまわり診療所)に相談にのっていただいている。
いつまでもお元気で!(文責:事務局 片岡明彦)
【阪井健治さん略歴】
1935(昭和10)年9月 | 大阪市で生まれる |
1951年3月 | 大阪市立今宮中学校(西成区)卒業 |
1959年7月頃 | 電気設備工事をはじめる。以後、一貫して労働者として従事 |
1963年 | 結婚、のち二人の息子を授かる |
1998年3月 | 【最終現場】東成スポーツセンター建設電気設備工事(62歳) |
2015年6月 | びまん性胸膜肥厚について不支給決定 |
2017年10月 | びまん性胸膜肥厚について支給決定(労災認定)(82歳) |
2018年10月 | 傷病補償年金に移行 |
現在 | 肺がんを併発。在宅酸素療法中。88歳 |
関西労災職業病2024年1月550号
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