浦功議長に聞く~労働者のための闘いの歴史/50周年記念インタビュー

関西労働者安全センターの設立50周年を記念して、2003年から議長を務められている浦功弁護士にインタビューをお願いした。

学生時代から司法修習期

-法曹界に入ったきっかけをお聞かせください。

私は、大学は法学部に入ったのですが、当時は法曹界を目指そうということは考えていなかったのです。どこか就職をしようと思っていたのですが、4回生になったときに、何かやり残したような、どうもこのまま就職するのはどうかという、いわゆるモラトリアムで1年留年したのです。今から思えば愚かしいことだと思いますが、これが1966年のことでした。そしてその夏に就職活動をして10社くらい受験したのですが、どこも採用してくれなかったのです。確かに学生の就職事情は厳しかったというものあるのですが、受検はさせてくれるのにどこも落とすのですね。なぜか、とある会社で尋ねると「君、遅いよ、こんな時期に来て…」と言われまして。実は就職活動解禁日は7月1日だったのですが、就職を希望している学生は解禁日前に就職先から内定を得ているのが常識だったのです。

それでは法学部の大学院に行こうということになりまして、大学院に入り、労働法の関西重鎮であった片岡曻先生の研究室に入りました。とはいえ当時は文芸評論とかマルクスとか読んでいて、法律の勉強をあまりしていませんでした。そこで、大学院に入った以上法律の勉強をしよう、と司法試験の勉強をしたのです。そして1968年に合格するのですが、大学院に入ったからには論文も書こうと思い、もう1年大学院に残って修士論文を書くことにしました。ただ、目を患ってしまい、論文を書き上げられないまま中退して、69年に司法研修所に入り、71年に弁護士登録をしました。

69年というと、東大封鎖解除の年でしてね、東大は卒業式がなかった。一部の学生は卒業のための単位を取得するために4月以降3ヵ月大学に残って勉強し、東大卒業者として7月に研修所に入所してきました。一方、東大生だけ特別扱いは許されない、中退でよいと4月に入所するものもいて、例えば民主党にいた仙谷(仙谷由人)は中退組でしたね。研修所では「7月入所者」問題として大きく取り上げられました。そんな社会的には激動の時代だったのですが、私はこのまま大学院に残って研究するよりも、自分の周囲の状況を変えてみたいと思って研修所に入ることを選びました。

その当時は全国的に大学封鎖など学生運動、街頭や職場での反戦派の労働運動が盛んに激しく行われている時代でした。2年間の司法修習期間中でも、関西の救援連絡センターというところから、弁護士登録をしたら弁護を頼むなどと言われていました。また、私は大学院の研究室も労働法だったので、弁護士になっても労働事件をやりたいと思っていました。ですから私は弁護士登録をすると同時に学生事件や労働事件に積極的にかかわってあちこち飛び回っていましたね。

逮捕学生の支援活動

ー赤軍派の事件も担当されたのですか?

ありましたね。群馬県に真岡市というところがあるのですが、ここの銃砲店を赤軍派の学生が襲って銃を奪う、という事件がありました。その銃を使って彼らが松江総合銀行を襲い、現金600万を奪ったのです。その事件を担当することになって、71年8月に弁護士になって4カ月にしかならないのに、大阪から松江にまで接見に行きました。当時は革命が近い、という雰囲気でしたから、学生事件、公安事件は各地で発生し、私はそれらの事件に多数かかわりました。

ー当時の学生気質とは?

私たちは革命の士だ、と法廷でも言うのですね。人定質問で「職業は?」と問われると「革命家!」と答える学生もたくさんいました。72年には「解放区」を作るということで、梅田の阪急駅とJRの間の歩道橋のある一帯に100名近い学生が座り込んで、一挙に30名もの学生が逮捕されるという事件がありました。勾留裁判の際に、裁判官が住所と名前を言えば釈放すると言っているのに、権力の言いなりにはならないと主張して全員黙秘をするのです。この事件は菅充行弁護士と一緒に取り組んだのですが、そのことが74年に堺筋共同法律事務所を開くきっかけの一つになりました。

ー逮捕されることも闘いの一環だったんですね。当時の皆さんと交流は今もありますか?

この事件は、事件の日をとって「11.19事件」と呼ばれていましたが、その行動に参加した当時の学生諸君の多くは、職場に入るなどとしても労働運動にかかわったり、また今でも西成で活躍している人がいますね。ずっと年賀状のやり取りをしてきた人もいますし、集まりや事件を通じて顔を合わせるとなつかしく言葉を交わしています。

大規模薬害事件、スモン訴訟

ーいくつか訴訟について伺いたいのですが、まずはスモン訴訟について

1972年から取り組んだ事件です。

キノホルム剤という薬をタケダ、田辺、チバガイギーなどの製薬企業が整腸薬として大いに売り出していたのです。このキノホルム剤には、視神経を侵したり、手足の指のしびれ等の神経症状、視力障害や運動障害などの全身的な症状を発症させるという重篤な副作用がありました。キノホルム剤とスモン病との因果関係が重要で困難な問題でしたが、それは疫学調査で明らかになります。キノホルム剤を大量に使っていた特定の病院の周辺地域にはスモン病の患者が多数発生している調査結果が各地で報告されていました。そのようなことから、スモン病の原因物質としてキノホルム剤が特定され、それがその後科学的な裏付け得られたのです。全国で何千人もの患者が出て、大阪だけでも数百人の患者は出たのではないでしょうか。

スモン病の患者さんが原告となって国と製薬企業に対して損害賠償を請求しました。訴訟は、全国各地の裁判所に係属しました。このスモン訴訟は79年に、国の責任も含めて、製薬企業も患者会に謝罪して解決をみ、以後和解による救済がはかられました。このスモン訴訟は、薬害訴訟の走りで、その闘い方は、その後のエイズ訴訟、肝炎訴訟に引き継がれていきます。

国の責任に関しては、裁判所は、キノホルム剤について諸外国で副作用報告がされていたのに、国が、それを見過ごして製造や輸入を承認したのは薬剤に対する審査が不十分であり違法である、と判断したのです。まったく今のアスベスト問題と一緒ですよ。アスベスト問題でも「国がやるべきことはやっていない」、国の不作為に対する違法性を追求してきましたが、法理論的には、このスモン訴訟と同じ理屈を使っているはずです。

そして、原発訴訟

ー伊方原発訴訟について

これは原発の設置許可処分の取消訴訟ですが、1972年の原子炉設置許可の処分に対し、住民側が73年に異議申し立てをします。いつものように、まもなく異議申立は棄却されて、その年の年末に松山地裁に許可処分の取消訴訟という行政訴訟を提起しました。一審判決は78年4月25日、控訴審判決は84年12月14日、最高裁判決は92年10月21日に出ています。

訴訟の二審係属中の79年にアメリカのスリーマイル島原発事故、上告審係属中の86年にチェルノブイリ原発事故が発生するのですが、それを見ていながら裁判所は厚顔にも住民側の請求を棄却するのです。
伊方原発行政訴訟では、科学者と弁護士が連携して、原発の危険性に関する、ほぼ全問題点について果敢に科学論争を挑み、私達はその論争には完全に勝ったと思っていました。

ー科学的に明らかにな問題があれば、設置許可を取り消すと裁判所は言っているのですか?

ほぼそういうことです。許可処分の違法性、つまり行政庁の判断に不合理な点があるか否かということについて、通常その責任は住民側(原告側)が不合理な点があるということを主張・立証しなければならないのですが、最高裁は、原発という高度に科学的な施設の問題については、まず、行政庁側において判断基準や判断過程に不合理な点がないことを、相当な根拠、資料に基づいて主張・立証する必要があり、立証を尽くさない場合には、行政庁の判断に不合理な点があることが事実上推認される、と言いました。法的には主張・立証責任の転換と言われます。

しかし、実際には、最高裁のこの判断は適用されていないと言えます。例えば、私が担当した廃棄物処理についてですが、廃棄物処理技術は未だに完成していないのだから、まさに不合理というほかないのです。この点については、行政庁はインチキをします。原発設置者は廃棄物処理については、許可申請書に「廃棄物の廃棄に関する書類」を添えなくてはならず、その中に処理方法を記載しなくてはならなかったのです。ところが廃棄する方法はありません。そこで何をしたかというと、廃棄物は廃棄しなくても、「施設内の貯蔵保管」でよい、というように安全審査の基準それ自体を緩和してしまったのです。福島ではいま、大量のタンクに貯蔵保管した廃棄物の処理水を海洋投棄していますが、これはまさにこの問題なのです。

科学論争と言えば、先に科学者と弁護士の連携と言いましたが、熊取六人衆を含む多数の科学者の方々と弁護士がペアになって担当を決めてそれぞれの問題を勉強しました。弁護士にとっては全く専門外の理科系の問題でしたが、一生懸命勉強しました。あれはとても面白かった。久米三四郎さんという反原発の旗頭だった阪大の先生。荻野晃也さんという京大の先生は核物理が専門なのにこの事件のために地震の勉強をされて、伊方原発は中央構造線の直近にあるため危険であるという論文を発表されたのですね。この荻野さんは阪神淡路大震災で注目された野島断層の危険性も当時から訴えていらっしゃった。また、六人衆中の小出裕章さんや今中哲二さんは、当時、青年の大学院生でしたが、いまでは大家となられ反原発運動の最前線で理論と運動を牽引されています。

労働者側弁護士として

ー岩佐訴訟について

伊方原発行政訴訟は、団長の藤田一良弁護士、事務局長の仲田隆明弁護士ほか10名近い弁護士が実働していましたが、この伊方原発訴訟弁護団がそのまま、74年に岩佐訴訟の原告代理人を務めました。岩佐さんは原電の敦賀原発において配管の保守点検修理作業を担当されていましたが、作業中に放射能に被曝して放射性皮膚炎に罹患されました。そこで、労災申請と原電相手に損害賠償訴訟をしましたが、残念なことに労災認定も損害賠償もとれずに終わり悔しい思いをしました。それでも裁判を通じて、裁判所に原発施設の中の検証を採用させ敦賀原発の中に入ることができました。防護服に着替えて、線量計を下げて原子炉施設の中に入るのですが、入った瞬間、線量計の目盛りがパッとあがり、原発施設の内側の恐ろしさを自ら体験しました。この事件では、岩佐さんは、阪大の田代実医師に診てもらい、放射性皮膚炎だと診断をいただいた。また理学部の岡村日出夫先生には原発の機器の構造についても詳しく解説いただきましたね。しかし結果は残念でした。

ー西労日勤教育訴訟について

JRにはたくさん労働組合がありますが、当局側は、その中でも最も戦闘的なJR西日本労働組合(西労)を強く嫌忌していました。そのため、労働組合の活動を低下させ弱体化させようと意図して、組合員に対して日勤教育を強要しました。これは西労組合員に対する嫌がらせ、今でいうところのパワハラそのものです。些細なミス、たとえば列車にちょっとの遅れでも発生させると、西労の組合員には日勤教育と称して、長期間にわたって職場から排除して就業規則の書き写しなど不必要かつ無益な作業をさせたのです。

そして、この日勤教育は福知山線の脱線事故の伏線になったと言えます。当該列車の運転士は、わずかな遅れを取り戻すべく回復運転しなければと思いスピードをあげ過ぎて事故につながったと推測されています。

浦議長がこれまでかかわってきた事件は国家賠償訴訟など国の責任を問うものが多く、常に労働者や市民の救済をはかり社会の変革につながる闘いを続けてきた。それぞれ結審した事件ではあるが、今日でも十分通用する内容であるし、また解決していない問題でもある。安全センターも市民や労働者の権利を保障し、拡大させる闘いを続けていこう。(構成、文責:事務局 酒井恭輔)

関西労災職業病2023年11・12月549号