被災者は語る 第2回・泉まり子さん~関西労働者安全センター50周年企画インタビュー
関西労働者安全センター設立以来の50 年は労災職業病被災者と共に歩んだ50 年といえます。「被災」という予期せぬ「現実」に向き合う人たちのお話を改めて傾聴する本企画の第2回は、泉まり子さん(82歳)です。長年、ダクト工をしていた夫の賢治さんは、仕事中アスベストにばく露し、アスベスト特有のがんである胸膜中皮腫で亡くなりました。まり子さんは建設アスベスト訴訟(稿末の表参照)大阪2陣に参加しています。
恩人
-中皮腫で亡くなられた夫の賢治さんとは同学年ですね
私と結婚するまでは自由奔放でしたけど、結婚してからは一生懸命働きはりました。学年はいっしょ、夫は早生まれで私の4ヶ月あとです。
彼はずいぶんはやくに母を亡くして、兄と父の男所帯の中で生活をしてきはりました。
高校の頃にちょっとぐれて学校も行かんようになりはって、それで一回補導されて警察のお世話に。みんなで悪さして、兄が大学授業中に抜け出してもらいうけにいきはった。
それからは、ほんと一生懸命働きはった。
-ご結婚されたのはどのような?
そのときはまだ夫はタクシー運転手。40歳で亡くなった私の実母の葬儀が京都であったときに会ったのが縁です。
-結婚後しばらくしてからダクトの仕事をされるようになったんですね?
きちんと職をもたなければならないと考えた夫は、大手空調メーカーに勤めていた、絶対に頭の上がらない兄の紹介でT製作所に就職してダクトの仕事をするようになりました。
そのあと、同じような年齢の若い人たちばかりでやっていたD工業に、独立を前提として移って修行したのち、土井松さんが貸してくれた吹東町の30坪の土地を自分らで整地し、コンクリートを打ち、鉄骨で工場を建てました。吹東町なので「スイトウ工業」。お金がなかったから私達夫婦と仕事仲間の方々の助けで建てました。
土井松さんが土地を手放すことになり移転しなければならなくなったときは、土井松さんが吹田市と代替地を交渉してくれてJRアサヒビールにはさまれた工場としては好条件の南吹田に移りました。
スイトウ工業
-賢治さんは仕事が好きだったんですね
まさか、仕事でいのちとられるなんて、なんやったんやろ、と思います。
驚くのは、そういう系統の大学に行ったこともないのに、すごい図面を書いていたことです。製図板が2台あって、図面を細かく手書きで書いていました。ター君(隆夫:長男)がそれを見て「国宝級やな」と言ったこともありました。夫にはわたしにないものがありました。記憶力がよかったし、仕事に対しては本当にすごかった。
図面は工場に全部置いていたけど、工場を手放すときにすべて処分したことをいまでも後悔してます。
-スイトウ工業では賢治さんを支えて、いっしょに仕事をされました
私は息子が10歳になってから仕事にでましたが、スイトウ工業が忙しくなるとずっといっしょに仕事をしました。すべての伝票処理、事務仕事。多くの下請け職人をかかえて、結構大きな仕事をしました。京都の住友や滋賀のダイハツなど。私自身も現場に行きました。天井が張られたところでは、職人が仕事をしやすいように図面をみながら天井の下に必要な材料を並べていく。夫は現場での手間を最小限にするために工場で、運搬するトラックの荷台の長さぎりぎりまでダクトをつないでから持って行く。できるだけ工場で仕上げてから行くんです。
「私こんな現場でしごとしたんよ」という軽い感じで仕事の話を育ての母にも話していました。
母はそれを聞いて「うわ、うちのまり子さんが~?!」と驚きましたが、夫に「うちの子は、手八丁口八丁でなんでもできるえ」言うのが口癖でした。
一度、現場で天井を踏み抜いて落ちたことがあります。脚立に乗って材料を開口部から天井にいれて、天井裏のケタをもって体を持ち上げて上がったときに天井板に乗ったものだから、下においてあった保温材の上に、ぼそっと落ちた。
そうしたら夫が「なにしてんねん!せっかく大工さんが板はったのに!」「そこの一枚をまた大工さんに来て張ってもらわなあかんやないか」と。
わたしやったら「大丈夫ー?!」て聞くでしょ、そやのに、それですから。
そのことを私、夫にずっと言ってましたので、夫は「それ、一生言うんやろね」言うてました。
そんな感じで、自営業だから、なにからなにまで(夫といっしょで)、どこからどこまでが仕事かがわからなくなって、徐々に友達とも縁遠くなっていって、好きな映画も美術館もファッションショーも夫がついてきてくれるようになりました。ロイヤルホテルのファッションショーにもつきあってくれるようになって。だんだん、友達も必要なくなっていきました。
いつでもいっしょ
-ファッションショーに賢治さんがついてきてくれるんですか
そうですよ。
私自身が、1回、ロイヤルホテルのファッションショーで歩いたことがあります。洋裁が好きで内職をしていました。息子や知り合いやその子供の服をつくって、小遣い稼ぎ。女の子の仮縫いを息子でしたとき、息子にいやだと泣かれたこともありました。
そうしてたら、アパレルをしていた友達のおねえさんが私のつくった服をみて、それぜったいええわ、ファッションショーに出して、いうことで、結局、私が着てショーに出て歩くことになりました。
映画は夫も好きで、好みはちがいましたが、私はハリウッド映画が好き。ラブストーリーが一番。なかでも「ローマの休日」は20回以上観てる。いまでも、テレビの番組表に出ていると観ます。
そんなふうに夫といつでもいっしょ。山登りとゴルフはつきあわなかったけど、テニスとスキーはずっといっしょでした。
夫は学生時代からスキーが好きでした。兄が関西大学のスキークラブでその兄につれて行ってもらって、スイスやカナダにも行ったことがあります。
丸物百貨店
-スイトウ工業での仕事はまり子さんにとっては楽しかったですか?
仕事ということでは、息子が10歳になってから勤めた、京都駅前にあった丸物百貨店の方がおもしろかった。
インテリア部門のパートでしたが、好きやったし、けっこう知識もありました。服飾インテリア、クッション、カーテン、ソファー。客にアドバイスして販売して、個人の売り上げは全部グラフにでます。パートでも研修は丸物が全部してました。
でもあのころスイトウ工業は、仕事はものすごいあるのに職人さんが来ない。それで、近くの関西大学にアルバイトの募集を出しに行くんです。
当時、アルバイト募集誌はあったけど、それではどこの子かわからん、確かな子がほしい、夫は大学に頼みに行く方が信用できるいうので、私がいつも関大にお願いにあがるんですが、関大側の条件は厳しいのよ、残業はさせないでください、とか、車に乗せないで下さいとか、大学に頼みに行く方がしんどいねん。
でもね、来てくれるのよ、関大生が。
中には、4回生まで来てくれて、いまだに年賀状をくれている方がいます。
ター君と関大生
-完全に戦力ですね
そうだよ~。
Uくんはお父さんを早くに亡くされて、妹さんとお母さんと三人家族。賃金の点から、残業もさせてほしいということもあったし、忙しいときは友達を連れてきてくれました。
Uくんの言うのには、うちは条件がいいと。お昼はみんなを食堂に連れて行き、晩ご飯や夜食もだしてました。冬はスキーにも連れていったりもしました。
三人いて、ひとりは全日空に入ったので、航空券を頼んだこともありました。
その子達はテニスの同好会だったので、あるとき、息子が夏休みにテニス同好会の沖縄合宿に連れていってもらうことになって、それを陸上部の先生に許可をもらおうとして「大学生につれて行ってもらう」と正直に書いて出したら不許可になって息子が悔し涙にくれたこともありました。
夫は「そんなもん正直に書かんかてええがな」と言いましたけど後の祭り。忘れられない想い出です。息子は兄弟がいないので(学生さんが)遊んでくれるのがうれしくてね…。
-息子さん、若くして亡くされています
ター君は学生時代にバイクで北海道旅行したことがあって、旅先からはがきで「生きてるよ」て書いてきてました。
亡くなった後、息子が北海道で旅をしたところを、夫と二人でレンタカーを借りて、何年もかけてまわりました。お世話になった民宿なんかのことも、あの子の手帳に書いてあったので御礼にいきました。
労災認定、て…なんなん?
-賢治さんが中皮腫と診断されたのは胸水がみつかった2009年、そして労災申請を…
なんなのか、わからないなあ、といっていたときにインターネットで調べたら、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会が出てきて電話をしたら市民病院に来てくれました。
労災のことは考えてもいなかったけど、労災に届けましょう、と。
茨木労基署に行ったり、来たりして、ひとりでやりました。
このまえ、労災がなかなかおりない、という方の話を聞きましたけど、それをきいたとき、私の場合はわりと苦労せずに(労災が)おりたじゃないですか。
せやけどそれって、確実にみとめられたわけやんか、病気を。(アスベストの中皮腫だと)
それって、喜べない、ものすごく複雑な気持ちになりました。
「うそや~ん」て。
認定されたということは、確実にアスベスト被害者やん、アスベストばく露してるやん、ひょっとして、(中皮腫じゃなくて)肺がんやったら、肺がんでも死ということでこわかったですけど。なんともいえん気持ちでした。
中皮腫は左側、向かって右側、肺が真っ白でした。
夫は成人病センターのH先生にセカンドオピニオンを受けたい、と主治医のY先生に言い、H先生に受診したけど、H先生には「Y君がみているならいっしょです」言われ、そのときもう、いろんな本や資料を読んで、「ぼくはもう復帰できない」と。
闘病中、最後に工事で入り新装開店した阪急百貨店を、夫が絶対見に行きたいというので、酸素ボンベをころがしながら行きました。
でも夫は1階から8階までのぼってコロンバンの喫茶店の中で「まりこ、おれはここで待っているから」というので、「あーこのダクト、パパしたんや~」と眺めながら私だけで店内をまわりました。
最後のころ、家に帰る、ということになり、近くにSペインクリニックがあるというのでそこを受診し、医師を含めて4人のチームでみてくれました。移動バス式のお風呂をもってきていただいて入れてもらうと夫はとってもいい顔をしていました。
夫が亡くなったとき、私は苦しみや悲しみでいっぱいになって、一過性の記憶喪失になって、私もSペインクリニックにお世話になりましたが、亡くなった日から3日間の記憶が今もありません。
予算が足らなくなると、職人を使わないで、自分たちでしょっちゅうやっていましたから、私もどうなるんだろうと、いっときはびくびくしたけど、この年になったら、どのみち死ぬわと思うようにはなりました。
朝、新聞全部、声出して読む
-ブログをされています
最初にパソコンを買ったとき、20年くらい前、中川ムセンに夫をひっぱって行き買いましたが、どうしていいかわからない。なんとかしなきゃと思っていたら、テレビに吹田の青少年センターでパソコン教室をしているのが映ったのですぐ車で行きました。パソコンはそこからです。
その先生が当時30歳くらいで、いまもその先生です。弁護士とZoomで苦もなく打ち合わせできるのはそのおかげです。
ブログはパソコン教室の宿題でもあります。
◆工房伊まり奮闘記!
https://blog.goo.ne.jp/imariko70
「2023” 5 国会議事堂院内集会に参加して❣!2023-05-13 」
https://blog.goo.ne.jp/imariko70/e/7d5dfa6e689aa3c5aa6fe3b2e93afdff
夫が生きている頃から10年以上続けています。いっしょに習いに行っていました。
吹田市福祉協議会の役員、地元のコミュニティーセンターの喫茶室ボランティアとかいろいろ、ずっとやってます。趣味の陶芸は夫の生前からずっとしています。
-長生きしないと、ですね
自営業の私たちは国民年金、とても少ないので、国民年金基金ができたとき(1991年)は一番に飛びつきました。払うのがしんどくなってきても額を下げながらつづけました。
そんなおかげもあり今がありますけど、こうしていられるのは、あんなに苦労したパパのおかげや、結局、いのちはったお金やなあ、となるんです、そのたびに。するとね、結局、贅沢できひんわけやんか、なんか、しみったれた、みみっちい、自分の生活になっていっているわけです。
最後やし、もう少し、豊かに、ゆったりと生活できるやん、と思っても、仏壇の前で、これはパパが汗水垂らしたものやなあと思ったらそうはいかへんのです。
朝一番に新聞を声を上げて、全部読むことにしています。
この秋で83歳です。
【泉まり子さん略歴】(敬称略)
1940年11月 | 京都で生まれる。 |
1941年3月 | 夫・泉賢司、大阪で生まれる。 |
1964年3月 | 結婚、現在まで吹田に住む。 |
1965年6月 | 長男・隆夫、生まれる。 |
1969年 | 賢司、ダクト工の仕事はじめる。 |
1974年6月 | 独立し、「スイトウ工業」創業(吹田市吹東町) |
1977年頃から | まり子、スイトウ工業で賢司と共に働きはじめる。 |
1990年 | 隆夫、死去(享年25歳)。 |
2006年 | 賢司、近医で風邪症状にて慢性気管支炎と診断。 |
2007年 | 近くの病院で同様の症状で通院も改善せず、吹田市民病院で自然気胸と診断、手術。以後、息切れ、背部痛。 |
2009年4月 | 胸水みつかり、吹田市民病院入院。生検にて中皮腫と診断、以後、抗がん剤治療、入退院。中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会に相談し、アスベスト、労災についてアドバイス受ける。同会に参加(関西支部)。 |
2010年夏頃より | 訪問看護。 |
9月7日 | 茨木労基署労災認定 |
10月7日 | 吹田市民病院へ救急搬送。 |
10月14日 | 淀川キリスト病院(緩和ケア)に転院。 |
10月16日 | 賢司死去(享年69歳) |
2019年 | 建設アスベスト訴訟大阪2陣に遺族原告として参加、国・建材メーカーを相手に提訴(最高裁判決後、国とは和解)。 |
2023年6月30日 | 大阪地裁判決、建材メーカーに勝訴(大阪高裁に控訴) |
【事務局記】
泉まり子さんは中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会関西支部の古参会員で5月の東京・国会要請行動にも二日間参加された。先日、救急車で運ばれたと聞かされとても心配しましたが明るく元気なまり子さんは健在です。マスクをとりませんかと誘いましたが、おしゃれなマスクの写真姿となったのは残念でした。ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。
関西労災職業病2023年9月547号
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