被災者は語る 第1回・郡家滝雄さん~関西労働者安全センター50周年企画インタビュー
今月から労災職業病被災者のインタビューを随時掲載します。
関西労働者安全センターは今年で設立50年となります。その歴史は労災職業病被災者と共に歩んだ50年といえます。その節目にあたり、「被災」という予期せぬ「現実」に向き合う人たちのお話を改めて傾聴したいと思いました。
トップバッターは、建設アスベスト関西訴訟大阪1陣原告共同代表の郡家滝雄さん(73歳)です。
塩飽水軍の末裔
香川県丸亀市に昭和24年に生まれました。塩飽(しわく)諸島(注1)の塩飽水軍の子孫です。織田、豊臣、徳川と続いた御用船方の血筋です。
実家は塩飽諸島の牛島で今は住民10人程度です。小学校のときに一家で神戸に出て、父母と兄との4人暮らしでした。父は小さな内航船会社の社員でした。当時の生田区に住み、小中高は神戸です。内航の船乗りだった父を早くに亡くし、母も7年前に亡くなりました。私はおとなしいけど頑固なところがある子どもでした。
すこしやんちゃなところがあり高校3年1学期に中退。神戸の塗装会社に入って主に機械の塗装をしました。神戸製鋼で魚雷発射管の内部塗装をしたことがあります。
19歳で陸上自衛隊に入りました。
もともと実弾を撃ってみたいと入隊、ロケットランチャーまでは実射しました。戦車に乗りたかったんですが身長が高すぎて、基地通信隊の勤務となったこと、その他もろもろあり1年半で辞めました。
警備会社に行き万博のパビリオン警備をしたりしましたが、おもしろくなくやめたあと、兄がいた軽天(軽量天井)の会社に入りました。
軽天工
軽天の仕事というのは、建物の躯体ができたら設備工事が入りますけど、その時点で、天井や間仕切り=壁を作っていくところから入っていきます。そして、完成の引き渡しの時点まで現場にいます。コンピュータ室や学校といったところでは床もはります。軽天とは、軽量鉄骨天井ということ、ですけど、壁も床もするわけです。
鉄骨の建物でしたら、鉄骨の梁、柱、デッキプレートはむき出しなのでそこへ耐火被覆をします。ほとんどの場合は吹付けですが、ケイカライト(ケイ酸カルシウム板)で巻き込む場合もあります。
吹付け施工をする前に、天井を吊るボルトの仕込みをします。壁の取付金具の取り付けも吹き付け前に行います。ですが納期の関係で、吹き付けをしている最中の作業になることも多く、小さな建物の場合は上下(の階)に逃げることができますけど、スーパーやボーリング場といった大規模、広い建物が多かったので、同じフロアの同時施工でないと間に合わないと、私らの目の前で吹き付けをするという状況でした。
そうなると吹付け材が雪が降るように私らのところにとんでくるわけです。
私はこのように生きていますが、仲間では中皮腫で亡くなった方がたくさんいます。兄は今のところ大丈夫ですが、ひじょうに親しかった同僚も亡くなっています。
下地+ボード貼り
最初はふつうの軽天工でしたが、私の場合、器用だったというのがあって、下地からボード貼りまでするようになりました。
私らの頃は下地屋と貼り屋というのがあって、軽量鉄骨の骨組み(下地)をつくるのを下地工がやって、貼り工が(その骨組みに)ボード貼りをやっておったんです。
私はボード貼り工と仲がよかったのでやり方を聞いているうちにだんだんできるようになりました。下地からボード貼りまでやるようになったのはおそらく私が最初のひとりではないかと思います。今でも軽天工は下地までが普通ですが、両方やる人間が増えてきています。その方が便利で、手待ち時間もなくなりますから。
たとえば、壁の下地をします、そこにボードを貼りますが、ボードを貼ってしまわないと天井ができません、ということですから、下地工は手待ちになるわけなので、ボード貼りもすれば手待ち時間はない、ということになります。その分、収入も上がります。
真っ白で何も見えない
ボードは規格がきまっていて、910×1820ミリというのが1つの大きさですけど、壁が高さ3600以下でしたら、上の部分を採寸して余分の部分を切る、切ったら切り口がガタガタですから、そこをヤスリがけする。
電動丸鋸で切らねばならない固い材料もある。ケイカル板の厚いもの、フレキシブルボード、石綿板というのがあるんですが、そういうのは必ず電動丸鋸で切らなきゃいかん。電動丸鋸で切った場合の粉じんの量というのはハンパじゃない。
切ってる前が真っ白で何も見えない。
顔は真っ白け、頭もからだもみな真っ白けになるような粉じんで、鼻の穴真っ白け、耳の穴真っ白け、すべてのところが真っ白けになる。それを、休みを入れたとしても1年300日やるわけです。
独立16年、発症
はじめのころは職方(しょくかた)として働きましたが、平成元(1989)年くらいから郡家内装店=自営業者として仕事を請け負って、職人を何人か連れて現場に入るようになりました。職方で働くよりは、独立して自分が自由に若い人たちを育てた方がいいなということで独立しました。そのころは忙しかったですね。
平成11(1999)年に、元請けのゼネコン、そのころは浅沼組、間組、龍建設、佐藤工業などで、「自分(郡家さん)も労災に入っておけ」と言われて、労災保険の特別加入に入りました。
平成15(2003)年に病気になりました。
両肺に水が溜まり息苦しく、それ(胸水)を抜く、原因を調べるのに2年くらいかかりました。
最初は、鶴見緑地病院に行き、菌が出ていないが結核ではないのかということで半年間治療をしたけど(薬の)副作用はでるけど、一向によくならない。
セカンドオピニオンみたいなもので、当時の大阪市大病院(現在、大阪公立大病院)に紹介してもらったところ、最初は中皮腫を疑われたけど右肺の生検の結果、悪性ではないということになり、アスベストによる両側胸膜肥厚あり、良性石綿胸水と診断されました。
左肺も生検しないかと言われましたが(右肺の生検が)非常に痛かったので嫌だと断りました。
自営業者ということでじん肺審査を申請して、じん肺管理4相当と判定され、労災申請をして「びまん性胸膜肥厚」として認定されました。労災補償は病院の治療代だけで休業補償はでないということでした。
それが平成19(2007)年、57歳のときです。3年間くらいはそのまま通院していましたが60歳になったときに 現場にはぜんぜん出られないようになりました。
休業補償、閉業
休業補償がどうしても必要になりました。
そのときネットで中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会を知り、その段階で関西労働者安全センターを知り、前の事務所(内本町にあった)に行き相談し、水嶋潔先生の診察を受け「びまん性胸膜肥厚」との診断で休業補償を申請しました。
平成19年の労災認定は労災特別加入に基づく認定でしたので、そのまま休業補償を受けると特別加入時の平均賃金5000円になるのですが、このときの休業補償請求にあたっては、実際には「特別加入して以降のアスベストばく露はその前の時期に比べて極めて軽微だった」ということを労基署に説明しました。その結果、労働者=職方として仕事をしていたときの賃金にもとづいて平均賃金が決まりましたので「5000円」よりはずっと高い平均賃金に基づく休業補償を受けることができました。
身体的に仕事ができなくなって労災請求した当時、労基署に「(現場に出られなくても)デスクワークはできるでしょ」と言われましたが、私は違いますよ、と。
自分で施工しながら弟子達を指導するというスタイルがとれなくなってしまう、私が現場にいないと現場がスムーズにいかない、そうなると「自分の仕事ではない」という感じになりました。
私が現場に行かないことによって、仕事の受注量も減ってきました。仕事の相手方は、私が現場にいるということで仕事を出してくれている部分も多かったですから。それで、結果的に仕事を諦めざるをえない。
安全センターに相談に行って休業補償を受け取るようになりましたが、病気で仕事ができなくなって、収入がなくなって、会社を閉め、借金も返せなくなりました。
結局、病気になったがために、全部とられ何も残りませんでした。
日本二周ひとり旅
経済的事情などからやむなく家族と別居して一人暮らしを始めざるを得なくなりました。
しかしワンルームにひとりでいたって落ち込んでいくばかりなので、自分の好きなことをしようと、ひとりで車旅に出るようになりました。
仕事で使っていた日産のキャラバンを寝泊まり、炊事できるように自分で改造して(本職は内装業ですから)、ひとり旅生活を始めました。
通院や裁判の用事があるときは、大阪に帰ってきて、また旅に出る、それで日本を一周しました。大阪から出発して、一般道で本州海沿いを時計回りに、いろいろなところに行き、食べて、見て、本州、四国、九州、北海道を一周しました。北海道は舞鶴~小樽のフェリーで往復です。反対から見ると景色が違うということで、二周目は、反時計回りに行きました。
桜前線、富士山
それが終わって、ちょうど、桜のはじまりだったので、桜前線を追っかけて、本州の背骨を北上しました。中国山地を縦断、京都から中山道、日光街道、奥州街道を行きました。
次は、日本一のところに行ってないということで、富士山に行きました。
五合目まで車で上がり、六合目までは足で上がりましたが、そこからはやはり無理でした。ずっと、昔からの趣味の写真を撮りながらの旅でした。富士山のときには素晴らしい写真が撮れたので、富士山の写真にはまって、それからはずっと富士山です。
もともと建築屋ですから建物には興味があるので、お城で天守閣が現存しているところは全部、100名城を全部、四国八十八箇所、西国三十三所など神社仏閣、明治期のれんが造りの建物なんかも好きです。霧島、阿蘇、剣山、四万十川、祖谷の吊り橋、登りはしませんが大山の周辺などなど。
神社仏閣でしたらへんぴなところでも小さな車でも行けるので、キャラバンからエブリイに変えました。軽ならより近くまで行けますし。
自分で撮影条件を調節して撮ります。デジタルも使いますけど、フィルムで撮るのとデジタルとではプリントすると風合い、色合いが違うので主にフィルムカメラを使います。主としてNikonのF3です。デジカメはNikonのDfです。
病気になってなかったら、この旅はなかったけれど、病気にならなかったらいまでも仕事に行ってたでしょう。
咸臨丸子孫の会
病気になって病院のベッドでノートパソコンでいろいろやっていて「咸臨丸子孫の会」をみつけました。
連絡してみたら「(あなたを)探してたんですー!」ということになり、咸臨丸子孫の会に入りました。病気からできた縁です。
私の曾祖父が郡家瀧蔵(注2)といい、咸臨丸でアメリカに行きました。咸臨丸子孫の会のHPにある乗組員名簿に記載されています。いまだに子孫の会にはご子孫がいてまして、歌手の山本コウタローもそうです。
昔のいわゆる北前船を運行していたのも塩飽の人間で、だから、塩飽の子孫が北海道や青森などの北前線の寄港地にいます。北海道の木古内、江差などに塩飽の子孫で「塩飽さん」という人がいて、北海道庁にいる「塩飽さん」や青森の港の「塩飽さん」に会いました。日本一周のときにはこうした先祖の関係者を尋ねました。塩飽は小さな島々ですけど、日本全国につながっているのです。
郡家という名字は珍しく全国で40軒くらいです。私も子、孫がいて、「郡家」です。千葉にも私のおじの子孫の「郡家」が住んでいます。郡家という名前は遡れば、塩飽に行き着くんです。
建設アスベスト訴訟
建設アスベスト訴訟の大阪1陣に加わったのは平成24年です。休業補償を受けることになった頃です。
安全センターの紹介で大阪アスベスト弁護団の弁護士に会ったときには、すぐに「(裁判を)やる」と言いました。そして、旅とともに裁判をしていました。裁判の用事があれば大阪に帰りました。
裁判に加わったことは、自分にとってプラスでした。
なにより、アスベストのことを知ることになりました。
労災認定されていても、「アスベストのこと」を考えたことはこれっぽっちもありませんでした。自分がなぜこの病気になったのかの根本を知ったのは、原告団になってからです。だから、世の中の人、アスベストの病気になってても、(そこのところは)なんにも考えてないのが普通ではないでしょうか。
原告団会議なんかは積極的に参加しました。現場のことをよく知っていて、たまたま、私はよくしゃべるので、よかったのではないでしょうか。職人は口下手の方が多いですから。
大阪1陣原告団は私含めて被害者19名の原告団です。
途中から共同代表になりましたが、私も動くから、みんなでいっしょにやっていこう、という意識でやっていたらけっこう皆さんが協力してくれてよかったです。
地裁、高裁、最高裁
地裁の判決が出るまでどうなるか判らない中、「期待せんとこよ」と言いながらやってきましたから、地裁の判決が出て「あー、よかったね!」と思いました。高裁でもおなじように、過大に期待しないでやってきたのがよかったと思います。地裁、高裁、最高裁と、大阪の原告の人たちは、どのときも過大に期待せずにそれなりに受け止めてきました。
地裁の時は、国には勝ちましたが企業には勝てませんでした。
高裁では企業にも勝ちました。私自身は国と企業6社に勝訴することができました。6社はエーアンドエーマテリアル、神島化学工業、大建工業、ニチアス、日東紡績、三菱マテリアル建材です。
大阪高裁の裁判長は、横浜地裁にいたときに神奈川1陣が国と企業に全面敗訴した判決を書いた裁判長と同じ人物でしたので、この高裁判決は意味が深い判決だったと思います。最高裁では勝訴し、私自身の判決は確定しました。しかし、敗訴した原告が出たことは実に残念でした。
給付金法成立、そしてこれから…
いちばんよかったのは、最高裁判決後、すみやかに議員立法で建設アスベスト給付金法ができたことです。それを目標に活動をしていましたけども、あそこまでなるとは予想していませんでした。
裁判に勝ったはいいのですけど、疑問は残っています。
裁判をやった人は、それなりに結果を得ているが、そこまでいかない、行けない人たちがいます。同じ被害に遭いながら。
建設の場合は、満足はできないけれど、国の給付金というのがありますが、ほかの職種の場合は、なにもない。同じ被害者でも、そこの救済までいくのか、いかんのか、いけるのか、いけないのか。被害者がひとりもでなくなるまで、何年かかるかわからないが、今の日本の在り方じゃわかりません。
期待もせず、悲観もせず、そのときそのときできることをする、そうすることで将来、何らかの答えが出てくるのではないでしょうか。
1971/1~2006 | 内装工(軽天)として建設業に従事就業 |
2007/6/19 | 労災認定(びまん性胸膜肥厚) |
2011/7/13 | 建設アスベスト訴訟大阪1陣提訴(大阪地裁)、原告として参加。途中から共同代表。 |
2011/8/25 | 泉南アスベスト国賠訴訟1陣大阪高裁判決(逆転敗訴) |
2012/2/29 | 休業補償支給決定 |
2012/3/28 | 泉南アスベスト国賠訴訟2陣大阪地裁判決(勝訴) |
2012/5/25 | 建設アスベスト訴訟神奈川1陣横浜地裁判決(国、企業とも敗訴) |
2013/12/25 | 泉南アスベスト国賠訴訟2陣大阪高裁判決(勝訴) |
2014/10/9 | 泉南アスベスト国賠訴訟1,2陣最高裁判決(勝訴) |
2016/1/22 | 建設アスベスト訴訟大阪1陣大阪地裁判決(国・勝訴、企業・敗訴) |
2018/9/20 | 大阪1陣大阪高裁判決(国・勝訴、企業・勝訴) |
2021/5/17 | 建設アスベスト訴訟最高裁判決(国・勝訴、企業・勝訴) |
2022/1/19 | 建設アスベスト給付金法施行 |
全国安全センターHP記事https://joshrc.net/archives/9706参照
【事務局記】
郡家さんは、実は、びまん性胸膜肥厚で病院にかかる6年前に胃ガンで胃の3分の2を摘出している。労災認定後に、腸閉塞で救急入院して大腸がんがみつかり手術、その後、肝臓転移がみつかって内視鏡切除などして術後抗がん剤は「あれは、きつかったー!最高裁判決の時にちょうど治療が終わったんよ」と教えてくれた。病気を諦めない、楽しみがある間は大丈夫!という言葉に説得力がありました。「寒い間は温泉。今月はカミさんと赤穂温泉に牡蠣を食べに行く」と帰って行った元気な73歳でした。(2023年1月19日取材・構成:事務局 片岡)
注1)塩飽諸島
塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、瀬戸内海の中でも、岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成り(岡山県側は笠岡諸島)、名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。戦国時代には塩飽水軍(しわくすいぐん)が活躍し、江戸時代は人名(にんみょう)による自治が行われたが、近年は過疎化が進んでいる
塩飽諸島(Wikipedia)
注2)郡家瀧蔵
咸臨丸子孫の会HPに掲載されている咸臨丸乗組員名簿http://www.kanrin-maru.org/kanrinmaru_new/document/pdf/document_7.pdf
によると、郡家瀧蔵氏は、塩飽出身水主(かこ)35名のうちのひとりで、咸臨丸太平洋横断時にかぞえ21歳、職名は鉄砲方水主、長崎海軍伝習所出身。塩飽諸島牛島の出と記載されている。
関西労災職業病2023年5月543号
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