職業中毒の政治学/原田正純:一酸化炭素(CO)中毒、二硫化炭素中毒、有機水銀中毒・水俣病~

関西労働者安全センター第15回総会記念講演
1995年5月20日

熊本大学の原田です。私の本来の専門は神経精神科です。最初私はあまり医者になりたくなかったのですけれども、鹿児島.の田舎で親父が医者をしていたものですから、医者になれということで医者になりました。熊本大学を卒業して精神神経科に入って、その時最初にぶっつかったのが水俣病です。その後水俣病の研究をずっとやっているのですが、最初あまり問題意識をもっていませんでした。それがショックを受けたのが昭和40年の新潟水俣病の発生だったのです。

水俣病の原因があれほどはっきり分かって、しかもあれだけの成果をあげていながら、全く同じことが新潟で繰り返されたということです。本来ならば、研究者は原因が分かって結果がでればもうそれで終わりで、それから先は政治家や行政のすることなのでしょうが、しかしそれが全然社会に活かされなかったということは、これは非常にショックだったのです。

何故、しばしば繰り返される、労災職業病、公害の教訓は活かされなかったのか、あの熊大の研究は何の意味があったのかということでした。

社会的な病気=職業中毒

今日の話は昭和38年の三池炭じん爆発、まずこれを中心に話をしてゆきたいと思います。熊本から一時間ぐらいのところに荒尾と大牟田があるのですが、県境のところです、ここの三池の三川坑で炭じん爆発が起こりました。私も救援に駆つけたんですが、とにかく戦争のときの野戦病院ってこんなものかと思うくらいに現場は大混乱をしていました。

そうこうしていて、それから一年半くらいした時に、筑豊の山野坑でまた同じようなガス爆発を起こした。ここは私たちが駆けつけた時は、もう上がってくるのは生きた人達は一人もいなかった、全部死者です。まあそういうことが炭坑でもしょっちゅう繰り返されるわけです。私たち医者にはもちろん限界がありまして、一人の患者さんを治すのも非常に難しいわけです。治し切れない。今の医学の限界というのはたくさんあるのですが、一方では近代科学の発達に伴って経済が発展する、そういう高度成長の過程でそういう不治の患者を大量生産してゆく、そういったことに何かたまらない気持になっていったわけです。

幸いというか不幸というか九州にはそういう問題がいっぱいありました。

まずカネミ油症事件というのが起こりました。北九州から長崎県の方にかけてPCBの混入した食品油を食べて大規模の中毒事件が起こりました。それから私たちの所から一時間半ばかり行くと宮崎県に入ってしまうんですが、宮崎県の九州山脈の山麓の土呂久という廃坑で砒素中毒事件が起こるのです。なにしろ中毒に恵まれたというか、世界中で未だ経験の無いような事件が次マとわれわれの周囲で起こった。そのために、私はなんとなく中毒の専門家みたいになったわけです。

結局、中毒というのは人間が作った病気です。これは完全に社会的な病気ですから、これをゼロにすることは理論的には出来るわけです。それをやらずにおいて、いくら診断の技術や、治療の技術が進んだってこれはもう全くナンセンスなわけです。われわれはいかにしてそういうものを無くすかということを考えなければならないという考えに、やっとたどりついてきたのはこの30数年なのです。今日はまあ機会がありまして、その幾つかの中毒について報告をしてゆきたいと思います。その中毒の裏に在るもの、職業中毒と労災職業病、公害と分けているのですけれども、実はその根っこはみんな同じなんだということを申し上げたいと思います。

三池炭じん爆発、被害拡大の原因

大牟田の三井鉱山三池三川坑で1963年の11月9日15時12分に炭じん爆発が起こりました(図1)。

この時坑内には1403名の労働者が入っていたわけです。不幸なことに、一番方と二番方の交替時間だったのですから、昇坑する人と入坑する人が一緒になってしまったのです。それで大惨事となったのです。入坑者の大体33パーセント、三人に一人、438人がこの時に命を無くしたのです。そして残った大部分の人達、839人の人達が今なおひどい後遺症に悩まされているわけです。私たちはずっと昔のことと思って忘れてしまっても、この人たちは未だにその災害を引きずっているわけです。

この時はちょうど日曜日だったのですね、実はこの日横浜では列車の脱線事故が起こって、この時に161人の人が死んだのです。あれは鶴見事故と言いました。私はちょうどこの日、日曜日で遊びに阿蘇山に登っていたんですよ。山の上でラジオで事故のことを聞いて、熊大が救援の要請を受けたと知って、外科の先生たち大変だなあなんて人ごとのように考えていたのです。つまり炭じん爆発というから、すっ飛んだり怪我した人達が大部分だろうから外科が緊急救援に行くのだろうと思って、外科の先生は大変だなあなんて考えながら下りてきたのですが、実は死者の大部分は一酸化炭素でやられたのでした。

これは爆発直後の坑ロの所ですが、事故の直後ですから、花輪が供えられています。爆発は入りロから1500メートルのところで起こったのです(図2)。すなわち爆発は比較的入ロに近いところで起こったのです。

これは後でいろいろ問題になってくることですが、三井鉱山は爆発した時直ちに救援隊を送らなければならなかったんです。ところが入ロの1500メートルのところで爆発が起こったというので、いっぺん集めた救護隊を解散してしまうのです。というのは、その辺はあまり人がいないということだったようです。しかし爆風ですっ飛んで直接亡くなった人が20人はいるわけですね。これは全く感覚の問題なんで、20人ぐらいを大して人がいないというふうに見るのか、20人の人がすっ飛んだのは大変なことだと考えるかの違いなんですね。通常の感覚だったらこれは大変なことなのですね。しかし、爆発したちょうどあの辺はあまり人が居ないということで、三井鉱山はなんとか穏便にというか、こそこそと処理をLようとした形跡があるのですね。これが実は被害を非常に大きくした原因なんです。

つまり変な言い方ですが、爆風で首が吹っ飛んだ場合は、一時間後にたどり着こうが二時間後にたどり着こうが、即死している場合はそれはまあ仕方がないんですが、この場合一酸化炭素ガスなのですね。一分でも一秒でも早く助けなければいけなかったわけです。したがって死亡者の458人の中20人は爆風による直接死ですが、後の430何人はゆっくりとガスにやられたわけですね、これが非常に問題なのです。

産学癒着による三井鉱山不起訴

またその爆発がなぜ起こったかということを簡単に言いますと、ようするに炭じんがたまっていて、その炭じんが爆発してしまったわけですけれども、救援に行った私たちに三井鉱山はこう説明したのです。

「この炭鉱は日本でも一番優秀な炭鉱で、ガスが出てこない炭鉱です。したがってこんな優良な、ガスがぜんぜん出ない炭鉱で爆発が起こるということはまったく予想できなかった」と説明しました。

そしてもう一つ、「たくさん後遺症の人達が担ぎだされているけれども、『一酸化炭素中毒の後遺症は一過性のもので、すぐ良くなる』といわれている」と、こう言いました。

実はこの二つがまったく嘘であるということを私たちはその後体験するわけです。しかしその時、私たちは行っていきなりそう言われるとなるほどそんなものかと思ったのです。それで本当に予想が出来なかったかどうかということですが、炭車を巻き上げている時に途中で、炭車を繋いでいた金具が外れるのですね、これは明らかに金属疲労でもって金具が延びてしまってそれで炭車が暴走するわけです。炭車が暴走すると坑内にあった炭じんを巻き上げるわけですね。その炭じんを巻き上げた中に、たとえば、これはハッキリは分からないんですが、何かの理由で着火して爆発したんですね。炭じんは炭素ですから、炭素の小さな微粒子、粉が空気中に舞い上がって、飽和状態になれば、爆発をおこすのですね。

アメリカではメリケン粉エ場で、メリケン粉のあの小さな粉、あれも炭素ですから、それが部屋の中に充満していて何かに着火して爆発した事故があるのです。それから最近ではご承知の方もあると思いますが、東京でやはリビニールの何かの小さな粉じんが工場の中に浮遊していてそれに火がついて爆発した事故があったんです。そういうように空気の中にゴミというか、炭素の非常に小さなものが飽和状態にあると、ちょっとした火源で爆発するんですね。

この時はおそらくその炭車が物凄いスピードで落ちて行ったわけで、それが鉄の柱にぶちあたったり、壊れていますけども、レールで火花が出たりするわけですから火源はたくさんあったわけですね。それで爆発をしたわけです。そして最初の爆発と同時に第二次、第三次と爆発してゆきますから、一酸化炭素ガスがどんどん生産されるわけです。そしてその一酸化炭素ガスがずうっと坑内を走ってゆくわけですね。だから労働者はずっと下の方の、例えば350メートル坑道だとか450メートル坑道にいる人達には爆発音も聞こえないわけです。電気は消えちゃったし仕事にならんじゃないかとじっと待っているけど何の指示もない、奇怪しいなあというので本道に出てきたらそこでばたばた倒れて死んでしまったと、こういうことなんですね。だから一分でも一秒でも早く救出されねばならなかったんですが何の指示さえも無かったわけですね。

これは走ってきた炭車が突き当たって止まったところです(図3)。

現場の生マしい写真ですね。これは実は荒木先生とおっしゃる先生から頂いたんですが、起こしてはいけないのですが、事故が起こった時、やはり原因を明らかにするということは非常に大事なことですね。しかもその原因についての責任をきちっと取らせるということは再発防止につながると思うんです。爆発直後、この荒木先生は炭じん爆発の専門家ですが、九州大学の工学部を出て、当時は九州工業大学の教授をされていたんですが、警察から鑑定を依頼されてすぐ現地に飛ばれた、その時の写真がこれです。

荒木先生は立派な方で、私は裁判の過程でこの先生とご一緒していったものですから、いろいろ資料をいただいたわけです。この先生の鑑定書はきわめて単純明快です。炭粉がたくさんたまっていたと、それを炭車が金具が外れて暴走して、巻き上げて何かの火源が火になって爆発を起こしたんだと、いわゆる炭じん爆発であったと非常に明快です。それを受けた福岡県警は、三井鉱山幹部を過失ありとして書類送検するわけですね。しかしこれが結局不起訴になります。その不起訴の理由というのが、炭じん爆発は予想できなかった、予見不可能ということです。

その過程で荒木先生の鑑定書に対していろんな圧力が掛かってくるわけです。実はこの荒木先生の恩師が、この時は三井鉱山側の調査委員会に入ってしまって、そして風化砂岩説という不思議な説を出してくるんです。これはどういう説かというと、三池鉱山の坑道の天井や壁は、非常にもろく、砂がざらざらしていて、しょっちゆう砂がぼろぼろこぼれているというわけです。だから炭じんがいっぱい落ちていても上から砂が落ちてきて押さえてしまうから、この爆発は起こらないという説です。これが偉い大学の先生たちの反論です。本気で本当に書いたんだろうかと不思議に思えます。

それではなぜ爆発がおこったのかということになるわけです。ところがその爆発の理由は、炭車が暴走してその時積んでいた石炭が粉々になって炭粉が大量に発生したというわけです。炭車の中に石炭を積むのは当たり前のことでこれは違反ではないが、坑道に炭粉がいっぱい溜まっていたらこれは違反になる、しかし坑道の炭粉は砂で押さえられていたからという、要するに信じられない程の屁理屈。炭車の上の石炭が暴走した時に壊れて、それが炭粉になって、それが引火して爆発したのだから不可抗力というんですね。

福岡県警の方は書類送検したわけですから、後は検察庁が起訴するかどうかだったんです。ところが検察庁では、積極的に起訴しようとしていた検事は飛ばされるんですね。そして後に来た検事は二年ぐらいかかって調べて結局不起訴と結論します。それに対して患者や遺族は、不当であるとして検察審査会に申立するんですけども結局うやむやです。

その後次々と炭じん爆発が起こって多くの労働者の命が奪われるのですが、しかし全部不可抗力だった、予見できなかったということになってしまいます。これは酷いものです。そしてたまに逮捕されることがあるけど、せいぜい現場の監督ぐらいで、決してトップに行くことはないですね。これはまあ驚くべきことです。

そしてさらに驚くべきことに、爆発の後、県警が荒木先生に鑑定を依頼したわけです。火事があったり、なんか事故があった場合にはかならず県警が原因調査をするわけですから荒木先生も協力された。しかしこの鑑定書を出した後、荒木先生は全く鉱山学会で孤立させられてしまうわけですね。真実を書いたというだけでなぜそんなに孤立させられなくてはならないか。全く信じられない話ですが、あの頃九州の大学の鉱山関係の研究者というのは、やはり鉱山と癒着というようななまやさしい関係ではなかったのですね。

爆発の状況はどうだったかというと、(三川鉱の)坑ロから斜坑を入ったここで爆発したわけです。上の方は人がいないので大したことはないと考えたのだけど発生したCOは坑内へと流れて行ったわけですから、坑道に出てきてみんな死んでいるわけです。これはおそらく電気も来ない、炭車も来ないんで奇怪しいなあと皆上がって行こうとして坑道に出てきたんではないでしょうかね。それから、例えば宮浦坑の連絡ロに逃げようとした人達、こういう人達がたくさん死んで行ったわけです。もし私たちが交通事故で一人でも間違えて死なしたらこれは大変なことになるのですけども、こんな沢山の人が死んでも何ということはないわけですよね、それこそ予見出来なかったということで起訴もされなかったということです。これには非常に労働者は悔しい思いをしたわけです(図4)。

炭じん爆発の原因はエネルギー政策と合理化

当時炭じん爆発が頻発しました。三池の炭じん爆発の後にタ張、伊王島、山野、それからまた三川鉱と起こっているわけですね(表1)。

これはもうただごとではないわけです。炭じん爆発はなぜ起るか、それは炭粉があるから起こるわけです。そして、この炭じん爆発を予防するのはハイテクや凄いお金は要らないわけですね。要するに常時、如露(じょうろ)で水を撒いておけばいいのです。要するに何も要らないわけですよ、コンピューターで温度を管理するとか、風の量を管理するとかやっているなら、そんなこともしなくていいわけです。要するに如露で水を撒いて、毎日水を撒いて炭粉が舞い上がらないようにしておけば爆発しなかったのです。

なぜそんな簡単なことが出来なかったか、それはその背景に合理化の問題が出てくるわけです。1956年に炭坑のスクラップアンドビルドと言われた石炭鉱業合理化臨時措置法というのができる。結局、石炭エネルギーから石油エネルギーに切り換える時点でのエネルギー革命ですね。国内の石炭産業をどうするかということで、結局コストの問題で優良坑だけ残して、小さい効率の悪い炭鉱は潰してしまえという、簡単に言えばそういう法律が出来たわけです。

それで石炭産業に見切りをつけた業者達が閉山を次々としていく、筑豊地区の沢山の炭鉱、あるいは北海道のたくさんの炭鉱がどんどん閉山してゆくのはこの時期ですね。ところが、閉山しすぎてしまったのですね。あまり急激に閉山しすぎたので実は爆発の時は石炭が足りなくなっていた。そこでまた大変な増産をしてゆくわけです。そういうふうに考えると、この炭じん爆発の直接の原因は炭粉が溜まっていたということになるんですが、さらにその背景にはエネルギーを転換するという政策の問題があったわけです。

そして合理化という名で、「直接夫」は減らさないで「間接夫」、つまり保安だとか、まあそういう直接石炭を掘らない人達をどんどん首を切っていったんです。それが合理化だったのです。

ところが、三池には三池労組があってそれをさせなかった、ところが1960年に始まった、280日という史上最大の三池争議で結局負けてしまった。全国からの多くの労働者を集めて闘ったが、それでも千何百人の活動家の首を守れなかった。その結果として生産量は著しく増えていくわけです。たとえば争議前は一日4000トンしか掘れなかったものが争議以後はその三倍の13000トンも掘れるようになった、しかも労働者の数は物凄く減らしていますから一人当たりの出炭量というのは数倍になっているわけですね。

つまり如露で坑道に水を撒く人とかがいなくなってしまったわけですね。

三池争議のときに指名解雇が来た人達というのは組合の活動家であり、しかもその人達は鉱山から言わせると生産阻害者ということになっていたのです。つまりここは治安が悪いぞとか、いろいろけちをつけて生産の足を引っ張っている奴とそういうことになっていたんですね。しかし実は三井の炭じん爆発の主要なる原因は炭じんなんだけども、中なる原因はそういうエネルギー政策であり、もう一つはそういう合理化ということになります。やはり三池の炭じん爆発の原因をずうっと探ってゆくと三池争議まできてしまうということです。

三井鉱山はうちの山はガスが出ない所だから爆発が起こるとは知らなかったと言ったんですが、調べてみますと、炭鉱の歴史というのは実は炭じん爆発の歴史なんですね。とにかく炭坑の歴史が始まってからとにかく百人以上死んだ炭じん爆発だけでもこのようにたくさんあるのです(表2)。

有名なのははフランスのクーリエ炭鉱でのもので千人以上死んだ。その他に沢山の炭鉱でおこっていますね。炭鉱の歴史は本当に炭鉱労働者の屍を乗り越えてきた歴史ですね。今炭鉱がほとんど閉山されようとしている中で、この多くの人達の、日本の近代化の中で、流された多くの血の意味というのは何だったかというふうに今考えますね。

もう一つ気がつくのは中国で大きな爆発が多く起こっています。みんな日本経営の時代です。本渓湖では1527名という炭じん爆発が起こっているんです。この話は調べているのですが、この事件だけでも一冊の本が書けるぐらいすざましいものですね。

とにかく途中でまだ人が生きているかもしれないのに閉鎖してしまうんですからね。炭坑の歴史に植民地支配の歴史がからんでいます。

それと私、三池の医療を分担していながら、どうしようもない歴史的な差別を感じたわけです。考えて見ますとね、明治政府があの炭鉱を三井に払い下げたのが明治22(1889)年です。明治の中頃です。それまでは囚人労働だったわけです。囚人に掘らせていたのです。そして囚人の後はですね、離島で仕事の無い人達を大量に集めてきて、そしてこの人達に掘らせているんですね。離島労働なんですね。今でも与論島出身の人達がたくさん居ます。その次はご承知のように植民地時代に朝鮮人労働者を沢山投入した、その後は今度は捕虜労働なんですね。だから明治以降、炭を掘る人達をまともに人間として扱ってきていないという歴史がありました。こうみてくると、この爆発の本当の原因は人を人と見ない差別だったような気がするわけですね。

CO中毒と医学教科書

三井鉱山はガスのないところで爆発が起こるとは知らなかったといったのですね。私たちも知らなかったのであっそうですかといっていたのですが、知らないどころか、炭坑の歴史の中では炭じん爆発は多数くり返されて、多くの命が失われていたのですね。だから知っていたはずです。だから予防しなければならなかったし、それは簡単にできたのですよね。

でも炭じん爆発は起こってしまった。「CO中毒は一過性です、だからほとんど後遺症は残りません」と、三井鉱山は説明するのでああそうですかって言ったのですけども、いくつかの教科書をみても、確かに後遺症は数日から数週間で、後遺症の発生は0.2パーセントということになっています。

ところがこの0.2バーセントというのはでたらめなんですね。

こういうものを教科書にしてみんな勉強しているんですね。恐ろしいことです。ところが実際三池だけはどうして後遺症がこんなたくさん出たのだろうか、三池は他と何処が違うんだろうか、ああ、あそこは組合が強い、だから後遺症が多いのだろうということで組合源性の後遺症と、こうなっていくのですね(表1参照)。そのためにこの後、三池のCOガスを吸わされた労働者たちは大変ひどい目にあうわけです。

私たちは30年近く追跡を続けているわけですが、私たち熊大が受け持った患者さんというのは、熊本県側に入院した荒尾市民病院とそれから万田分院と平井分院というところに入院した百人の患者さんで、百人以上いたんですが、まあ途中で亡くなっていかれたり、いろいろしていったわけですけれど、主にその患者さんたちを最初から追跡したわけです。

これは10年のデータですが、10年経っても後遺症は残っていて治らないんです(表3)。

どうして、今までの論文や教科書と違うのかということですよね。それにはいくつか理由があります。

一つは非常に救出が遅れたことです。例えば、爆発したのが午後の3時12分、3時40分には炭じん爆発と確認していて、そして救助隊をいっぺん集めるんですが、入抗ロの所だから大したことはないんじゃないか、様子を見ようということで待機するんですね。ところがぜんぜん人が上がって来ないと、どうもこれは奇怪しいそと言って、三川坑に救助隊が入ったのはなんとそれから2時間経っているんですよ。そして一番最後に救出されて出て来た人は18時間経っているんですよ。なぜこんなに遅れたのかということですね。この間に坑内でじっと待っていた人達がガスを吸わされて次々死んでいったり、あるいはひどいCO中毒になっていった。後遺症が多いということは、救援が非常に遅れたということが一つあります。

それからもう一つは今までの教科書がみんな嘘だったということです。私が気がついたのは、この0.2パーセントという数字がやたらと教科書に出てくるわけです。後遺症は0.2、これは、みんな誰かの何かの本を引用しているんです。それをたどっていくとシリトーの論文というのが出てくるのですね。この論文はアメリカの論文ですがとんでもない報告なのです。

ニューヨークで10年間にガス中毒になったのが二万何千人いたというわけです。その時の後遺症が0.2だったというので、皆これをよく確かめもせずに全部引用しているんですよ。だけどよくよくこの論文を読んで見ると、これは不思議な論文なんですね。ニューヨークでは、ガス中毒の事件が起こった時は救急車と同時に、ガス会社に通報がくるんですね。それはまあ、ガスの爆発した現場に救急車と一緒にガス会社が行くというのは、ある意味では合理的なんですけど、そのガス会社に10年間で通報のあった中毒患者の数が二万何千人だというわけです。それはそれでいいですね。それは一つのデータですから。ところが一方、10年間にですね、ニューヨークの10の州立の精神病院にガス中毒の後遺症として入院したのが48人いたというわけです。これもそれはそれで一つのデータです。ところがどうしてその48人を2万人で割らないといけないのかということになってくるんですよ。その結果、後遺症は0.2パーセントとなる。これは誰が聞いても無茶苦茶な論文なのですけども、これをみんな教科書に引用している。

それが一人歩きして後遺症は一過性だということになったのですね。また、三池はこんなに後遺症が出ているんだけども、タ張はぜんぜん出ていないと言うんですね。タ張を調べてみたら、後遺症はあるんですよ、ただ労災治癒ということで帳面から消えているだけのことですよ。つまり力関係、タ張の人には申し訳ないけれども、カが弱かったために、後遺症があるのに、治癒認定を受けていつのまにかそのあとは私傷病になってしまう。職場に帰ってみるけれども結局事故を起こしたり、仕事にならなくてそして辞めていってるわけです。そうすると後遺症がどんなにあっても表面上は労災の中に出てきませんから、後遺症は無いということになるわけですね。そういうことに私たちは気がついたわけです。

労災法で救われない後遺症

この人は30何年、もう言葉を一言も発しない。自分で何も出来ない、まだ大学病院に入院しているんです。21歳の時に被曝、つまりガスを吸ったんですね。どうしてこれが後遺症無しでしょうか(写真省略)。この人も亡くなってしまったんですが、鉢巻きをして敬礼をするのが得意なんだけどほとんどわからないですね(図5)。

一度外泊で連れていったんですが、自分の家の自分の名前を書いてある表札を見てちゃんと自分の名前が読めたんですね。読めたと思ったんですが、トコトコよその家に入って行くんですからね、そういう人です。つまり凄い健忘症候群と言いますかすぐ今の事を忘れてしまうが古いのは少し残っているというような後遺症です。

これは絵が描けないんですね。失認と言いますが、要するにこの立体的と言うか構造が認識出来ないわけです。胴体がなくなっちゃったりするわけですね(図6)。

この人は着衣失行と言いまして、着物が着れないんですね。着物を着るというのは皆さん簡単にサッと着ているけども、考えてみると頭の中で着物の構造を組み立てて、何処に手を入れたらすっと手が通るかということを、みな無意識にしているんですね。頭の中に着物とか洋服というものの構造があって始めてできるわけですよ。それが組み立たないからどうやっても着れないという状態ですね。現在もそうです(図7)。ところがあまり考えない動作はいいのですね。たとえば、ピンポンしようかって、玉を打つとパッと受けるんですね。ところがピンポン玉を右手で握ってくださいとか言うと全く出来ない、反射的なものは出来るんですね。新聞記者などから見ると、ピンポンが出来て着物が着れないのは仮病みたいに写るんですね。

靴が履けないとか、靴下が履けない(図8)、それでピンポンはパッパやる。どうなってるんですかという話になるわけです。大脳皮質がやられた時にはそういう症状になる。

軽症と言われる人達もいろんな障害があります。何だか変なものを何でもどこからでも拾ってくるんですね。
家の中にはいっぱいゴミを集めている。そのうち人の家においてあるものまで拾ったつもりで持ってきて泥棒といって捕まえられたりするわけですね。

日本の労災保険の障害等級というのは、身体の目に見える障害を基準にしているんですね。もちろん身体の障害等級だって十分ではないんですが。今言ったようなCO中毒の後遺症として現れるような精神的な障害に対する等級というのはもともと極めて低いわけです。だから実際はこのような奇行、社会生活ができなくなるというような、人格の破壊については、手足がぴんぴんしているものですから、せいぜい最低の14級とかいうことになります。それで職場に帰らないものは怠け者だとか、なんだかさぼっているだとか、組合がけしかけているんだとか、そういう話になってしまうんですね。実際はそうじゃないんです。CO中毒の特徴は、そういうような人格の破壊です。これは言わば仮に手が一本無くなるより深刻なんです。

仮病だとかなんとか言われるけども、例えば患者の家に行って見ると、畳に煙草の焦げ跡がぼこぼこあいているわけです。煙草の火を付けておいて忘れるから、またもう一本火を付けてこちらに置くんですね。奥さんは恐ろしくて仕様がないから、後ろを灰皿を持ってついてまわらないといけない。生活が苦しいから奥さんは本当は働きたいんだけども、この人一人置いておいたら家を燃してしまうというので、後をついて廻るといいます。そういう障害というのはなかなか見えないんですよ。そういうふうに傷ついた人格について、その人に対していくら労災保険で払われますか。手足はぴんぴんしているわけです。元気なんです。話すことは人がくると何か立派なことを言うわけですね。しかし奥さんにしてみれば、こんな父ちゃんにして、一体どうしてくれると言いたいわけですね。それからある人は仮病だと言われるんですけど、何でも忘れてしまうものですから、下駄なんかでも大きく名前を書いておき、銭湯にゆくのでも、石鹸にも大きく名前を書いておく。ある日間違えて人のシャツを着ていたら泥棒呼ばわりされて、診察の時にわんわん泣くんですね、悔しいって泥棒にされたって、そういう見えないというか(見ようとしないから見えないんですけど)、そういう障害というものに対してはあまりにも酷すぎるんですね。つまり身体で、手がどこかから切れたとか、何が切れたとか、それに対しては何級、何級とあるんですけども、そういう精神の面にたいする補償というのはきわめて低いのです。ましていわんやこの患者のために、苦労して一家を目茶苦茶にされた家族に対する償いというのは労災法では一切無いわけです。だからそのあと裁判になって行くのです。

人命より生産第一であったということはですね、悔しいのは、爆発が起こった二日後にはですよ、三池災害技術特別調査団というのが中央から派遣されるんです。この調査団は何をしたかというと、いつ生産再開できるかという調査団ですよ。そして即座に10億円の融資を決めるんですよ、ところが一方三池災害医療調査団というのが来るのは1ヵ月後ですよ。どうして生産再開の調査団は2日後に来て、医療調査団は1ヵ月後に来なきゃいけないんですか。どっちが大事なんですか、人の命が大事なのか、まあ酷い話ですよ、これはきわめて象徴的です。それでもこの一ヵ月後にきた三池災害医療調査団の中の内村裕之という東大名誉教授は私たちに言いました。「CO中毒というのは君、治ったようで治らないんだよ」と、「後々まで奇妙な精神症状が続いてゆくのでこれは非常に重大なんだよ」と彼は言ったんです。教科書の記載とは彼は違っていた。彼らの勧告によって三池医療委員会というのが出来ます。専門家が集まって後ずっとフォローしていかなければいけないということで三池医療委員会というのが出来るんです。ところがこの三池医療委員会の第一回の委員会の議事録を見ますと、何のことはない、最初から等級をどう決めるか、いつ打ち切るかという議論に終始しているわけです。そこですり変わってしまう。そしてこの三池医療委員会というのは三年目に等級を決めて解散してしまうわけです。

三池で学んだ三つの責任

まあそういうことがあって随分悔しい思いなどもしましたけれども、沢山のことを私たちはこれで学んだわけです。まずこういう事故が起こったときに私達は三つの責任ということをはっきりしなくてはならないということがわかってくる。

それは一つ、起こした責任ですね、これをきちんとすること、はたして予防出来なかったのか、あるいは企業として予防できなかったかどうかという問題です。

それから二番目、被害が起こったら、その被害を最小限にする責任があったわけです。今申し上げたように救助が遅れたわけです。それから初期治療というのが目茶苦茶なんですね。これは後でも企業立の病院の責任という問題が出てくるんですが、その炭鉱の病院なのですよね、そしたらじん肺だとか、炭じん爆発とか、そういうものに対して特別な知識や準備や訓練が必要なわけです。加えて、初期にCOに対する知識や設備や対策が欠如していたわけですね。だから助かったものもその症状をひどくしてしまったわけです。たとえば、よく知られていた間歌型の存在を知っていたなら、安静こそが最も大切だということを知っていたならば、それに対して対策を立てていたなら、後遺症はこんなにも深刻にならなかったと思われます。救出が遅れて、初期治療を誤って被害を拡大してしまったわけです。

第三にその償いはどうであったかといいますと、三井鉱山は労災にまかせてしまい加害者としての陳謝や責任をとろうとしませんでした。その上、労災法ではCO中毒のような精神症状が主なものは評価が本当に低いわけです。もともと低いのですから労災で償えるわけがなかった。それに、家族たちの苦しみや悲しみ、生活破壊についてはもともと労災には含まれていないわけです。一家の大黒柱がやられて家族みんな生活が狂ってしまったその悔しさをどこにぶっつけようがなかった。こういったさまざまな想い、悔しさを労災にぶつけていたわけです。組合もその怒りを労災の等級闘争という形でしか解消できなかった。考えてみたらもともと労災というのは、もし障害に逢わなかったらいくら稼げたかという補填の考えですから、家族のことなんかもともと入っていないわけですね。それで父ちゃんがガス吸って一家滅茶苦茶にされた。子どもも進学をあきらめた。このことに対して一体、誰がどう償うのかと、それは三井鉱山しかないではないかということで民事訴訟が始まったわけですね。しかし、そのとき奇妙なことが起こりました。組合は裁判に反対したのです。それで最初たった四人で裁判をおこしました。その後、組合も裁判をします。しかし、こっちの方はそのあと和解します。和解しなかった人と四人組は裁判を続けて勝ったのですが、企業の責任を認めて補償金を払うように命令したのですが、その金額は低いものでした。しかも奥さんたちに対する慰謝料は一切認めませんでした。

【参考図書】炭じん爆発―三池三川鉱の一酸化炭素中毒 原田正純著

「日本にはない」といわれた二硫化炭素中毒

次は二硫化炭素中毒の話をします。二硫化炭素中毒はゴムエ業や人絹工業で発生して、古くから知られている中毒の一つです。昭和の、初期に人絹は輸出産業の目玉の重要な一つでしたから、若い女性労働者がたくさん働いていました。しかし、1920年代は職場の中の二硫化炭素ガスの濃度は100PPmを超えたというわけですから、労働者が次々と中毒になって倒れたというわけです。

二硫化炭素は麻酔作用があります神経毒ですから意識がなくなって、麻痺がきたり、知能や性格がやられて、精神病のようになったりして労働者の消耗が激しかったわけです。中毒でいえば急性・亜急性中毒ということになります。いくらなんでもこのように労働者がばたばた倒れると経営者も放っておけないわけで、化せん協会が学者を巻き込んで対策を考えます。それで少し濃度を下げることに成功しました。

そうすると、今度は神経衰弱のような精神症状、主にうつ状態やいろいろ、刺激性充進、易怒爆発などの症状がみられました。一方、特徴的なのは脱力、感覚障害、筋萎縮など多発神経炎という症状もみられることです。これは中毒でいえば慢性中毒ですね。

そして、戦後になってさらに濃度を減らします。二硫化炭素が20PPm前後になります。ところが、頭痛、めまい、不眠、いらいらなど多彩で頑固な自覚症状がみられて神経症みたいな状態が多くみられました。それで、、「おまえはノイローゼだ」といくらいっても労働力は低下しますし、対策を考えていかなければならなくなります。これを慢性中毒の不全型と仮にしておきます。

そして、ついに20PPm以下に下げることができたのです。それで、この二硫化炭素中毒問題は解決したかと思ったわけですね。そうしたら今度は腎臓がやられたり高血圧の患者が多数出てきたわけですね。腎臓障害や高血圧は二硫化炭素中毒でなくともおこってきます。だから非特異的な病気というわけですけども、ではこれを一般の腎臓障害や高血圧とどう区別するかというと、二硫化炭素に汚染された人とされてない人と比べて、そして高血圧の発生率だとか腎臓障害の発生率を調rべてはじめてこれは二硫化炭素のせいだなということが分かるわけですね。そういうことまで分かってきたわけです。

技術的にこれ以上二硫化炭素ガスの濃度を減らせないということでは仕方がないので、今度は労働者が暴露される時間を減らそうという形でやってゆくわけです。これを慢性の非特異型中毒とします。

ところがこれでもう完全に終わったと思ったら、今度は労働者自身が歳をとってくるわけですね、高齢化してくるわけです。すると微量なガスでも老化現象と重なってくると、全身の血管が動脈硬化になるという中毒が起こってきたのです。これは長期慢性型、血管型の二硫化炭素中毒というわけです(表4)。

この表で分かるように中毒というのはきわめてしつこいんですね、これは積極面を評価すれば、企業がなんとか二硫化炭素中毒を解決しようと思って研究者と組んでいろいろその都度その都度いろんな対策をたてて来たという歴史があるというようにも評価ができるのだけども、逆にいうと濃度をいろいろと変えて労働者に吸わせたらどうなるかという、結果的には人体実験みたいになっているわけですね。

1950年代には日本ではもうこれで二硫化炭素中毒は終わりだろうと思っていたわけです。ところが1943年頃から、ヨーロッパで、イタリーとかチェコとかユーゴとか、あの辺はレーヨンとか人絹工業の盛んなところでね、ここでは血管型の二硫化炭素中毒というのが問題になっていて論文がたくさん出ているわけです。ところが日本にはそのような二硫化炭素中毒は無いというわけですね。それで真面目に、ヨーロッパに存在するのになぜ日本に無いのだろうと言って、ある研究者がプロジェクトを作って、日本人とヨーロッパ人とどうして違うんだろうと、ひょっとすると体質なんだろうか、あるいは食生活なんだろうかということの調査を始めようとしていたわけです。

ところが、1966年に熊本県八代市の興国人絹で、この方は結局1941年に亡くなった人ですが解剖の結果、二硫化炭素中毒による血管障害ということがわかったのです。それが日本における血管型の二硫化炭素中毒の第一号だったのですね。その後、さらに調べてみますと次々と血管型の二硫化炭素中毒患者が発見されたのです。

日本にはいないなんていわれていたことが信じられないわけですね。要するに、体調をくずして会社をやめる。やめてしばらくしてから症状が悪化しても、それは他の病気、一般の脳梗塞として処理されてしまっていたわけですね。会社をやめているからもちろん労災にもならない。労災にならないということは統計上にでてきませんよね。だから、日本にはないということになっていたのですね。「日本にはない」というカラクリは全く社会的なことだったのです。

同じような工場は日本全国にはいくつもあったのですから、そこにもあるはずと考えたのですが、化せん協会は「興国人絹は特別に二硫化炭素濃度が高いところだった。管理が悪いところだった。」として、他のところとは違うというわけですね。しかし、私は個人的には二つの県外エ場の患者を実際知っております。しかし、二人とも労災申請をしようとはしていません。その後、興国人絹で39名、宇治のユニチカで9名、日東紡富山エ場で14名がすでに労災認定されていることをみても分かるように日本にも実際にあったのです。

二硫化炭素中毒の症状は多様です。その多彩多様なところが特徴といえば特徴です。最初は実験精神病といわれたくらい精神病に似ていました。そのあと、多発神経炎、脳炎みたいな神経の器質性の障害がみられました。もちろん、うつ病や神経衰弱、ノイローゼ、自律神経症状、てんかんなどの症状も同時にみられます。そういった神経毒が一つの特徴で、もう一つの特徴は血管毒です。血管がやられるのです。それでまず腎臓、腎臓は血管のかたまりですから、ここがやられますね。次いで血圧が上がりますね。次いで心筋梗塞、脳梗塞が起こります。これが特徴的です。従って多彩な神経精神症状がみられるのです。それと一度血管が傷害されると雪だるま式に、それと加齢も加わって進行するのです。二硫化炭素ガス職場から離れても小さな梗塞(卒中様)発作をくり返し次第次第に重症になっていくのです。1970年にはわたしたちはこの問題は医学的には決着がついたと思っていました。しかし、その後、熊本では労災を棄却された患者が行政訴訟を起こし、1995年3月に患者が勝訴しましたし、ユニチカでも訴訟が続いています。

職業病輸出、日本から韓国、韓国から中国へ

それより、私が大変ショックだったのは韓国で、二硫化炭素中毒が多発していることでした。

最初に正式に労災認定されたのは1988年です。マスコミが大きくとりあげて、1991年には一人の未認定患者が自殺しまして、それを契機に韓国の労災史上最大の闘争がおこりました。私は1991年11月に現場を訪れ、患者をみせてもらいました。その後も何人か診察させてもらっていますが、重症が多いです。もう認定患者数は542名になっています。この工場ではのべ12000人が働いていて、最盛期には1600人が働いていたといいますから患者はもっといる可能性があります。私がショックを受けたのは日本においてあれほど多くの犠牲者を出しながら、研究もそれなりに進められておりながらそれが全く生かされていないということです。実はこの大量の二硫化炭素中毒を発生させた機械は日本の会社が払い下げたものなのです。アメリカの機械もありましたが、それを聞いてまたまたショックでした。

これも工場の一部です(写真省略)。私が行く時は閉鎖して操業していませんから。最重症の人ですが、日本と全く同じで、左側から麻痺がきて、次いで右にもきて両方麻痺して植物人間みたいになっています(図9)。

源進(ウォンジン)レーヨンの二硫化炭素中毒患者

軽い人でも半身麻痺がみられます。こういう労働者が現在までに認定されたひとが542人になっています(写真省略)。

これが工場の中の労働者達ですが、私はこの事件で非常に心が傷んだのです(写真省略)。

これは明らかに職業病輸出ですね。さっき私が話したように、いろいろ問題があ.ったにしろ、昭和の初期から今日まで二硫化炭素についての中毒の研究というのは進んでいたのです。それは必要に迫られたとはいえ、企業と研究者が一緒になっていろいろな対策を立てながらやってきたわけですね。二硫化炭素についてのいろんな苦い経験を生かし、そして研究を進めてきた。このたった50年か60年の間に沢山の労働者が犠牲になっておりながら、その中の教訓として研究の成果が出てきたわけですけど、それを全く同じ形で韓国に輸出したということに私はいたたまれない気持ちがしたわけです(表5)。

今非常に憂慮されるのは、韓国では問題になってしまったので、この工場が倒産してしまったわけですね。そこでこのエ場で動いていた機械がですね、今年になってから中国の丹東省に輸出されてしまった。これはもう明らかに、中国で同じように二硫化炭素中毒が発生するのは間違いないと私は思っています。そういうように中毒というのは本当は幾つもの問題が含まれている、わたしは沢山の中毒を経験したんですが、一つ一つの中にいろんな問題を含んでいる、凄いいろんな問題を含んでいるわけです。それは中毒という病気がそういう社会的な病気であり、しかも政治的な病気であるからだと思います。

【参考図書】韓国職業病闘争の20年 労働組合の介入で改善の実績-源進二硫化炭素中毒職業病闘争20周年会議
古谷杉郎(全国安全センター事務局長)

【参考図書】いのちの証言・二硫化炭素中毒 : ラマツィーニ、現代によみがえれ 吉中丈志著

隠れていた北海道の水銀中毒と労働者

最後に水銀の話をします。水銀中毒には無機水銀と有機水銀があります。

水俣病は有機水銀中毒です。しかし使用したのは無機水銀ですね、それがアセトアルデヒド工程で有機化したのがあとでわかるのですね。海の中に600トンとも700トンとも言われる水銀を捨ててしまったわけですが、この水銀はいったいどこから持ってきたんだろうと関心があったのです。

それは北海道から持ってきたんですね。北海道の旭川の近くのイトムカという鉱山から来たのです。ここに私は行ってきましたが今は廃坑になっております。これが元の鉱山の跡の写真ですね(写真省略)。今は坑内に水銀の廃棄物を棄てています。中ではいろんな大学の研究施設なんかの廃液を集めて、水銀を採った跡にまた水銀廃液を棄てる、そんなことをしています。

昭和48年に閉山をしています。ここの水銀が不知火海に持ってゆかれて、水俣病を起こしたわけですが、少し調べてみると、これは東洋一の規模を誇ったんですね。昭和11年の11月に台風が来て、木が倒れたんですね。その倒れた根っこの方にキラキラ光るものがあったと、そういうことで発見された。それからずっと掘って掘って掘りまくって東洋一の規模にまでなった、当然労働者の中に無機水銀中毒患者が多発しています。追跡調査をしようとして随分探したんですが、何人か見つかりました。しかし、北海道は水俣や三池と違って労働者の移動が激しく、また隠し廻っているんですね。なかなかつかまえるのが困難でした。当時労働組合の委員長だったという人に会って、いろいろ話を聞いてみました。いろいろ資料を貰いましたしその資料の中にこの写真がありました(写真省略)。

当時、昭和26年頃の鉱山ですね。周辺の木が皆枯れてしまっています(写真省略)。ここからみて、当然沢山の労働者が無機水銀中毒にかかっていた筈です。ここで凄い話を聞きました。ここにも中国と朝鮮の労働者を強制的に連れてきて危険な水銀を掘らせていた。1000人ぐらい働いていたそうです、当時、その委員長さんの話によると、この人達が戦後立ち上がったわけですね。日本側に言わせると暴動が起こったというのですがね、朝鮮労働者にとっては権利闘争ですよね。物凄い勢いで立ち上がったんですね。ところが戦争直後でそれを鎮圧するカが日本側には無かった。結局、アメリカの進駐軍が鎮圧したというのです。そこで自分たちの身は自分たちで守らなければならないというわけで、日本人の中に労働組合ができたということですね。労働組合の出来る理由が、当時の朝鮮や中国の労働者が立ち上がったのに対抗するために日本人の組合が出来たという話ですね。これは凄い話だと思いますね。実際弾圧、鎮圧した米軍が、どんな鎮圧をして具体的にどうしたのかということはちょっと資料が無いんですけど。

工場レベルで止められなかった水俣病

そういうように、水銀には無機水銀中毒があります。今ブラジルで金を掘っている人達が無機水銀中毒、これは非常に重症なものですが、多数発生してしています。そして、その使用した水銀が環境を汚染して、その無機水銀がどこかで有機化して、それが魚に蓄積されて、それを食べた人間を汚染し大量に食べると水俣病が起こるわけです。だから工場のレベルか、労働者のレベルでこれをくい止めていれば、公害問題というのも解決してゆくわけです。つまり、労働者の命や権利が本当に守られれば環境も守られるのです。

昭和31(1956)年の5月に、水俣病は発見され、熊大が第一報を報告したのが1957年です。第一報でお分かりのように、最初犠牲になったのはみんな子供です。たとえば2歳11ヶ月、5歳10ヶ月、2歳11ヶ月といった子供たちが最初に発病しています。結局環境汚染によって最初に誰がやられるかというと、地域の中に住んでいる生理的な弱者です。生理的弱者というのは老人であり子供であり、あるいはもともと病気を持った人達、こういう人達が最初にやられるということですね。

この子は3歳で発病して、今日に到るまで全く言葉が無い、ただ座ってニヤニヤしている、誕を垂らしているだけの話です。それでも酷い差別語がありますよ。涎(ゆだれ)屋敷って知っていますか、涎を垂れるようになると補償金を貰って家が建つと言う意味なのですよ。だから涎屋敷、何というかこんな酷い差別が水俣には今もあるわけです(写真省略)。

この子は最も重症で、この子も5歳で発病して死んでしまった、20何年生きていたのですけど亡くなった、松永くみ子ちゃんという子です(写真省略)。

不知火海はとても綺麗な海です。海に毒を棄てれば海はそれを薄めてくれるから毒でなくなると思って棄てたんだろうと思うんです。確かに薄めて無毒化するという働きが自然界にはあるのですね。ところが一方では薄いものを濃縮するという働きもあるわけですよ。例えばあの固い貝殻を貝はどうやって作るかのというと、あれは海水に含まれた非常に微量のカルシュームを濃縮して作っているわけですからね。薄めて毒でなくするという働きと、どんどん濃くするという働き、矛盾するようだけれどもそういう働きを自然界は両方持っているわけです。だから海は広いからちょっとぐらい棄てても大丈夫だろうと思って棄てたのが、実は魚の中で蓄積されていたわけですね。

そしてその辺に住む人々というのは、この村を見ても分かるように畑が少ないわけです。田んぼも全くないわけですから、魚を食べるしか無かったわけです(写真省略)。芋畑で芋を作って芋を食べて魚を食べていたわけです。もちろん今ハンバーガーでもなんでもあるし、カリフォルニアのオレンジだろうがオーストラリアの牛肉だろうがなんでもあるけども、当時は芋と魚しか無かったわけですね。だから魚を当然食べた。わが家の庭みたいな海から魚をとって食べた。当時、そのような暮らしをしていた人たちがこの不知火海沿岸に20万人以上住んでいました(図10)。

そこに当時チッソという先端技術の巨大な化学エ場があって、そして水銀をその海に流した、こういうことです。エ場から流した水銀は、この排水ロから海に流れていったわけです(図11)。

正確にどれぐらい流したのか分からないんですが、大体600トンとか70トンとか言われております。ここから流れていった水銀が沢山の人々を蝕んでいったわけです。

「起こるまで知らなかった」という企業の論理

最初、原因がわからなかったですね。何か分からなかった、そのためにチッソも行政も何もしませんでした。医学陣にとって原因究明は至上命令だったのです。原因が分からない時にどうするかというと、病気の特徴をまず明らかにするわけです。まず臨床症状としてどういう特徴があるかということを明らかにしたわけですが、視野が狭くなる、感覚障害がある、それから運動が円滑にゆかない共同運動障害、それから言語障害、聴力障害、そういうものが非常に高頻度に出ていることから、これらの症状が水俣病の特徴ということがわかったわけです(図12)。

それから亡くなって解剖したらどんな特徴があるかも重要です。まず、小脳がやられる、後頭部は視覚部中枢ですね、視覚部中枢がやられる、運動と感覚の中枢が特徴的に傷害されるということが分かってきたわけですね(図13)。病気の特徴が明らかになって始めて、その特徴のある病気はなんだろうということで世界中の文献を全部当たってみるのです。

そうしたらあったのですね、1945年にイギリスでメチル水銀農薬を作っている工場の労働者と技術者が、その自分たちが作っているメチル水銀によって中毒になった報告例があった。その報告の臨床症状と病理所見が水俣病と完全に一致したわけです。そこで始めてこれはメチル水銀中毒ではないかということで、水銀に関する調査が開始され、やっと原因がハッキリしてくるわけですね。公害、公害と言いますが基本はやはり、そういう職業性の中毒を注目しなければいけないわけですね。

昭和44(1969)年に最初の裁判が起こった時にチッソはなんと言ったかというと、「水俣病なんて世界で始めて起こった病気であるから、熊大の先生が3年もかかってやっと原因が分かったのに私たちがそれを知る筈がなかった」と言いました。これは水俣病を予見できなかったのだから、「責任はない」、「過失はない」と主張してきたのです。熊本大学が3年半もかかったのは、熊大は工場の中について全く何も知らない素人ですよ、工場の中の事を一番知っているのは、工場の技術者、工場の当事者じゃないですか、この人達が一番知っているわけです。熊本大学は、水俣病が起こるまでまったくの第三者です。工場の中で何を作っているかについては全く無知であったわけです。もし原因を早く解決しようとするなら、一番近道にいたのは工場の中の人たちなのです。それをあたかも熊本大学がチッソの安全性を監視するかのように、熊大が三年半もかかったんだから私たちが知る筈がないというのは、これは全くの無責任で、起こって見なければわからないというのでは人体実験の思想ですね。では、最初起こったのは何でも責任がないかということになります。これはとんでもないチッソの論理、企業の論理です。起こるまでは知らなかった、世界に例が無かったから知らなかった。従って、責任はない。今から起こってくるいろんな事態というものはおそらく世界で初めて起こってくることがたくさんあると思います。

原発の事故であれ、ダイオキシンの影響であれ、今後出てくるものはおそらく今まで全く報告の無いものが多いのではないかと思いますね。「最初は分からなかった、二回目からは注意します」ではこれは人間を人体実験する思想であると私たちは思います。そういう意味でもこういう考え方に対して私たちは抵抗してゆかなければならないと思っています。

1930年にわかっていた有機水銀中毒-ツアンガー論文

水俣病は環境性の中毒ですね。環境に放出して毒性を薄めたつもりのものが自然界のサイクル、食物連鎖を廻ってきて最後は人間にきてしまう。環境を汚すことは、「天に唾する」ことで、最終的には人間に来てしまうということです。さらに、人間でも最終的にはお腹の中の赤ちゃんにいってしまう。だからお母さんがたべて汚染され赤ちゃんがやられてしまう、それが胎児性水俣病です。

これが胎児性患者たちです(図14)。

当時の生活の厳しさを見て下さい。これが患者の家です(図15)。

そこにこんな重症な患者がいました(図16)。1962年頃です。本当に当時はこれでも日本の話かなというぐらいに貧しさと差別が酷かったのです。

それでチッソは水俣病のことは知らなかった知らなかったと言ったのですがね、熊本大学は1945年のイギリスのメチル水銀農薬工場労働者の報告例を見つけて初めて水俣病の原因のヒントを得たわけですね。ところが、最近わかったことですがね、もっとよく探していたら1930年にはそういう論文が出ていたのですね。これは私たちも知らなかった、もしこれをその頃、見つけていたら水俣病の歴史はまた別のものになったと思います。これはドイツ語だったものですから見落としてしまったんですね。それは1930年、スイスのチューリヒ大学のツアンガー教授が水銀を扱う労働者の健康調査をしているんです。そうすると二種類のタイプの健康障害があることに気づいたのですね。つまりさっき言った無機水銀中毒のタイプと、従来報告に無い中毒症のタイプと二つあると、同じ水銀を扱っているのにどうして二つのグループがあるんだろうということで調べてみると、従来の無機水銀中毒で無いタイプは全てアセトアルデヒドの生産エ程に関与している労働者だったのです。そのためにツアンガー教授は、これは従来の無機水銀中毒ではなく、おそらく有機水銀中毒で有機水銀がアセトァルデヒドの生産過程で産生しているんだろうと考えたのです。そして、もしそうであればこれは環境汚染を起こして重大なことになると警告を発していたのです。

この論文を見つけることができなかったことは痛恨の極みです。もしその論文を当時発見していたならずいぶん違ったものになった。しかし、それはわれわれの話であってね、世界でトップレベルというチッソはアセトアルデヒドに関するあらゆる情報を集めておかなければいけなかったわけです。われわれは水俣病が起こってあわててやりだしたのですけど、世界でトップレベルだと豪語するぐらいのアセトアルデヒドの生産量を誇った企業であれば、その企業の責任として、世界中のアセトァルデヒドに関する情報を、調査し、集めておく必要が彼らにはあったんですね。実は知っていたらしいんですけど、証拠はありません。チッソの労働者に昔何かそういうことが書いてあったものを見たと言うんですよ。アセトアルデヒドのプロセスでね。それで、一生懸命になってチッソの図書館を調べたこともあったけれども結局みつからなかった。裁判が始まってすぐのことでね、結局その時はそれで終わってしまったんですが、調べようとしてもっと徹底的にやっていればあったのですね。しかし、それを扱う企業は、一般人や大学がそれを知りませんでしたという話とは責任が違うんだということを私たちはきちんと認識していかねばならないと思います。

恥宣言に到達したチッソ労働組合の闘い

さて、チッソの労働者ですが、労働者の健康状態を調査するというのは当時非常に難しかったです。まあいろんな症状がある可能性があります。大体大きく分けると三つあります。

一つは化学エ場で働いているので、化学物質による中毒があります。これは普通の職業病ですね。

それから二つめは家にかえると魚を食べたわけですから水俣病の症状もある筈です。ダブルで、工場の中で汚染を受けて、帰ってきて魚を食べているわけですね、だから水俣病の第一号というのはチッソの労働者なのですね。この人は魚を釣るのが好きというか、趣味で、工場から退けてきたら小舟を持っていて、毎日魚釣りに行っていたんです。調べて見るとこの人が昭和28年頃に発病しているということになるんですね。しかし当時は水俣病ということは分かっていなかったから、闇に葬られたわけです。

さて、現在、チッソの労働者がどのような症状を持っているかというといろいろな症状がみられていますが、中でも水俣病に見られるような感覚障害を持った人達が30パーセントから50パーセント近くの労働者の中にいることがわかります(表6)。

これは大部分がメチル水銀の影響と思います。もっともこれは工場で働いている人たち、定年退職した人たちですから、重症者はすでに死亡したりしています。また、チッソの労働者は最後まで自分たちが水俣病と名乗っていません。この時点でこの中で水俣病の認定申請した人はわずか数人でした。本当に大変な事なんです(表7)。

三つめの最後は頸椎症だとか頸肩腕症候群だとかそういう労働と関連の病気というわけです。すなわち、工場の中で塩ビとかいろんな化学物質を使っていますから肝臓障害だとか皮膚障害だとか、そういう化学物質による中毒の症状と、水俣病の症状と労働によるものとこの三つがあります。

チッソの労働者は、水俣病が起こった時に、漁民たちが工場の操業を止めうと言って工場に押しかけた時にどっちの側に立ったかといえば、工場の側に立って漁民と対立したんです。しかしその後、安賃闘争という長い闘争があります。その中で労働者たちは第一組合と第二組合に切り離されるわけです。そういった激しい闘争の中で労働者たちは最後に、「われわれが工場の中で自らの権利と健康を守る闘いをしなかったことが水俣病をもたらしたのだ」と総括をして、「われわれが水俣病問題を自分たちの問題として捉えてこなかったことを恥とする」という有名な恥宣言というのをチッソの労働組合はやるのです。

それ以来彼らは水俣病患者の支援闘争へ入ってきます。そして私たちと一緒に裁判をやる、その段階では非常に貴重な証言や資料の提供を労働者たちから受けて、第一次訴訟を勝利に導くことが出来たわけです。

中毒の原因は人命軽視

中毒というのはあってはいけないことです。これは人間が作る病気ですから、理論的には無くなる病気が中毒です。今幾つかの例を見てきたように、人間が作ったものです。そしてそれは人間が作ったものであるが故に、極めて社会的政治的な要素の強い病気です。私はこれらの中毒を見ることで、中毒を通して世の中が見えてくる気がします。やはり職業性の中毒であれ、公害の中毒であれ、やはりそこには人を人と思わない、差別と言っていいのか、要するに人間を人間として見ない、人の命や権利を軽視する、そういうものが中毒の大きな原因であるというふうに私は要約したいと思っています。

最後の方で少し時間がなくなってしまったのですが、一つだけ言わせてもらえれば、その中で今責任を問われているのは行政や企業だけでなく専門家と言われる人達もであるということです。こういう人達は、こういう特殊な公害病だとか職業病の時には有効な役目をするのですけど、しかし、一方ではこの専門家達の犯してきた責任というものも私は決して無視できないと思っています。三池の中でいろんな役割を果たした専門家達、水俣病の中でいろんな役割を果たした専門家達が今も沢山いるわけですね。そういう人達の責任ということも非常に重大だと思っています。

いつもそういう専門家を使って、責任の回避、被害の抹殺、楼小化を行ってきた歴史を知らねばなりません。そういったものに使われる論理というのは幾つかあって決まっています。「そんなものは前例が無い」とかですね、それから「動物実験では証明されていない」とか、それから「外国の報告にない」とか、権威をふりかざして目の前にある事実を潰そうとする、そういう動きをこれらの中毒を経験する中でたくさん経験しました。それは中毒が非常に政治的なものであるからだろうと思うんですね。他の病気でそんなことはあまり無いわけですよ。ところが中毒となるとたくさんの専門家というのが動員されてくるわけですね。しかし、そのことのきちんとした総括をして、経験は次に生かされなければならないのではないかと思います。同時に水俣病の時にチッソの労働者が総括したように、やはりそういう事件に対する私たち市民、労働者、あるいは私たち専門家、みんなそれなりの責任があるだろうと思います。今日は最後の方しり切れとんぼになっちゃったんですけども、第15回の関西労働者安全センターに記念講演として呼んでいただいたことを感謝すると同時に、今後もいろいろご支援を下さるようにお願いして終わりたいと思います。どうも有り難うございました。(了)

はらだ・まさずみ(熊本大学医学部助教授、全国労働安全衛生センター連絡会議議長。本講演時)

関西労災職業病1995年9月242号、10月243号掲載