機関誌「関西労災職業病」500号記念に寄せて~「関西労災職業病」からたどる 個人的な安全センターの経験/事務局 西野 方庸

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私が関西労働者安全センターの事務所に出入りをするようになったのが1976年だから、数えてみると43年経ったことになる。機関誌のバックナンバーをたどってみると、79年ぐらいから私の書いた文字が混じってくる(当時の機関誌は表紙以外手書きだった)。正式に安全センターの事務局員になったのは81年だから、そこから数えても38年だ。

というわけで、「関西労災職業病」500号のうちの相当な号数に関わっていることになる。安全センターの歴史から教訓や課題を引き出したりすることはできないが、少し個人的な関わりの話を以下に書くことにする。

初めての原発被ばく労災-岩佐さんの労災審査請求

「来週水曜日の午後7時から阪大病院で会議をやるから来て…」

1975年の年末ごろ、学生だった私は、ある労災裁判の支援に加わろうと、会議日程を教えてもらった。いちおう理学部の学生だった私は、「科学の階級性」なんていう言葉に象徴されるような論に一端の関心を持ち、現実に起こっている問題に関わろうとしていた。その労災裁判というのは、大阪万博の70年に稼働して間もない日本原電敦賀原発での作業中に放射線被ばくをした岩佐訴訟だ。

環状線の福島駅で降りて、巨大な阪大病院の建物に入り、指定されたフロアにたどり着く。廊下に並んでいる部屋のプレートから「第○会議室」を探すのだがなかなか見つからない。「第○カンファレンス」がその会議室のことを指すのだと気がついたのは少し時間がたってからだった。

会議室に入ってみると、参加者は私をさそってくれた学生のKさんを含めて4人、私を入れてもわずか5人の打合せだった。理屈を戦わせることがあっても、会合といえば「その他の参加者」が常であった私にとって、なにか抜き差しならぬ立場になるような気がして、議題になっていたその後の行動に感じた少なからぬ戸惑いを覚えている。

すでに岩佐嘉寿幸さんの被ばく問題は、国会でも取り上げられ、当時の科学技術庁に設けられた調査委員会は、「被ばくはなかった」という報告をまとめて幕引きをはかり、舞台は裁判所に引き継がれたばかりの時期だった。(岩佐訴訟については、最近では三一書房刊の「原発被ばく労災」で詳しく紹介している。)

その日の議題は、裁判と同時に進められていた労災保険の審査請求についてだった。損害賠償請求の取り組み以外に、岩佐さんは労災保険の請求も行っていて、すでに敦賀労働基準監督署は不支給処分を行っていた。福井の労災保険審査官に審査請求を行ったところで、こちらのほうは学生を中心とした若手でやろうということになったわけだ。そしてその事務局は、当時、大淀区に新たに事務所を開設したばかりの関西労働者安全センターに置かれることになったのだった。

ということで私はそれ以降、大淀区の関西労働者安全センター事務所に出入りすることになる。
いま考えてみれば、岩佐さんが勤めていた水道管の工事会社は大阪市港区にあり、敦賀原発には出張して一時立入しただけだったから、労災保険の適用は工事会社になるので、労災保険の給付請求は大阪西労基署にするのがスジだと思うのだが、このときの請求は敦賀署で受け付けられていた。わざわざ福井市にいる審査官に面会に行ったり、署名活動などの支援運動を進めるなどした。
大阪地裁、大阪高裁、最高裁へと至る法廷を中心に、その後の取り組みは長期間にわたることとなる。

安全センターの任務は労災職業病の根源を絶つ闘いの支援と共闘

関西労働者安全センターの発足は、1973年9月のことだ。

「現在、関西におきましては、三豊工業、国鉄新幹線保線所、ゼネ石精、全港湾をはじめとする戦闘的労働組合の闘い、京滋じん肺同盟、頚肩腕症候群を闘う会などの被害者の闘い、尻無川工事殉職者遺族会をはじめとする遺族の闘い、さらにこれらの闘いを支援・共闘する医療従事者、専門技術者、学生の闘いなど数多くの闘いが展開されている。」

1973年10月15日発行の「関西労災職業病」第1号の巻頭を飾る「機関紙発刊にあたって」はこのように書き出している。
安全センター発足の背景となった労災職業病の取り組みは、この第1号に「労災・職業病を闘う‐シリーズ№1」として紹介されている。全港湾沿岸南支部安全衛生委員会、大阪北摂地区労災職業病対策会議、尼崎労働者健康協議会は、様々な職場での取り組みを組織として推進し、安全センター発足へとつなげていた。また第1号はさっそく「労働と病気」という連載記事を開始し、初回は頚肩腕障害が取り上げられている。
そして第1号の2頁には、「関西労働者安全センター結成さる!」と同年9月22日に京都大学で開かれた討論集会で設立を報じている。当時の職場や地域での労災職業病、反公害の闘いと、技術者や研究者などの専門家の共闘を進めるためにセンターができたのだった。
「現在の科学は確実に支配体制の矛盾をかくし、労働者人民の闘争を混乱させ、闘いを自らの手中に収めるために最大限に運用されていることは、水俣病や三池災害闘争をあげるまでもなく、私たちは、日常の闘いの中でイヤというほど体験しています。」
「センターの任務は何よりも、労働災害・職業病の根源を除去する労働者の闘いを支援し、共闘することを第一義とします。そしてさらに、職場での環境調査、災害認定、被災者の生活補償など労働者の要求に応えきろうとするものです。」
報告記事を読むと、当時の京阪神各地の職場の取り組みと、京都大学での毒物垂れ流し問題をめぐる学生の取り組み等を結び付けて、労災職業病闘争の飛躍的な拡大を目指していたことがこの文言からだけでもよく分かる。また、安全センターの立ち位置が、当時も今もあまり変わっていないこともよくわかる。

医療拠点の開設とフィールド合宿-20年続いた学生と労働者の交流

76年4月から安全センターに事務局を置いた「岩佐労災支援共闘会議」は、その後「原子力労災編集会議」と名称をあらため、岩佐さんの労災審査請求支援から、原発での被ばく労働を中心とした活動を進めた。私はその事務局員として安全センターの事務所に通うようになり、やがて「関西労災職業病」の編集も手伝うようになる。

当時の安全センターの活動は、現場で起きている個々の職業病の労災認定問題への取り組みに日常の多くの時間を費やし、労災保険法や労働安全衛生法の改悪阻止の取り組みにも力を入れ、多くの成果を得ていた。

また、労災職業病闘争の拠点としての医療機関の設立が必要と、76年には港区弁天町に南大阪労働者診療所(松浦診療所)を設立、安全センターの運動のもう一つの拠点として活動を始めた。医療機関の拠点ができたという意味は大きく、とりわけても労災職業病問題に関心を寄せる医師や医学生には全国的にも注目されることとなる。

診療所の設立準備会段階であった75年から「南大阪労働フィールド合宿」という取り組みを開始している。医学生を中心とした学生が、夏休みが始まった7月なかば頃に集まり、2~3泊の日程で、労災職業病の闘いを進める労働組合等を訪問、交流するというものだ。受け入れたのは、当時労災職業病の取り組みに力を入れていた全港湾、総評全金、国労新幹線などの労働組合が主なものだった。

この取り組みは結構学生の間で人気があり、毎年50名程度の参加があった。学生が労働組合に時間を割いてもらって交流するという結構な手間を要する企画なので、準備段階から実行委員会を構成する関西の学生サークルのメンバーが事前の調整を行うことになる。私は77年の第2回から実行委員会に加わって毎年準備を進めることになる。

当時の安全センターの事務局員や診療所の医師らもほとんどが20代、私も現役学生なので準備作業は意外にたやすく進んだ。50人もいる参加者を10ほどの班に振り分け、2日間の訪問日程を作る。あらかじめ準備をしたとはいえ、受け入れ労働組合に趣旨が十分に理解されていなかったり、学生側の不手際などというのもあった。ただ、受け入れ労働組合に言えることだが、こんな機会がなければ出会うことのない医学生らに、自らの職場の課題を説明するといいうのは得難い経験だということがある。少々の不手際があっても、相手は学生さんであり、どの労働組合もうまく対応してもらった。

学生の側はというと、「学ぶ」姿勢は慣れているうえに、こんな機会がなければ生涯見ることのない労働現場の状況に接するわけで、無駄な経験になるわけがない。
このフィールド合宿の取り組みはその後も長く続き、労働者住民医療機関連絡会議ができた82年には、大阪の取り組みにならって高知、神奈川、大分もあわせ全国4か所で開催、合計100人以上の医学生が参加する大イベントとなった。「関西労災職業病」のバックナンバーを調べると、大阪のフィールド合宿は90年代半ばまで計20回を数えて開催されたことになる。
もちろんこのフィールド合宿に参加した学生は、その後医療の現場はもちろん、色々な立場で労災職業病問題との関わりが続いている人がたくさんいる。

労災職業病闘争の積み重ね-記録としての「関西労災職業病」

労働安全衛生法や労働者災害補償保険法のような法制度の歴史をみても、被災労働者の数々の犠牲や職場での闘いの積み重ねの結果として改正が行われ、新たな条文が付け加えられている。関西労働者安全センターの歴史も諸先輩が作り上げてきた労災職業病闘争の成果の上に築き上げられているといえる。それはささやかなものかもしれないが、過去の機関誌を読み返してみて、あらためてそう思う。

これからの時代に、「労災職業病の根源を絶つ」取り組みをどのように継承させ、成果を積み重ねていくのか、500号の記録に何かのヒントを見いだす人がいるかもしれない。そうした意味でも、「関西労災職業病」はさらに号を重ねていきたいものだ。

関西労災職業病2019年5月500号